〈親指〉(拳に、隠れた)
キラキラ、水を浴びたように汗が飛び散る。
使い古されたサンドバックに、小気味よい音を立てて放たれる拳。
彼は包帯だらけの手をぐっ、と握りしめ、ただただ一心不乱に、彼の頭の中の敵と闘っている。
並盛中ボクシング部の部室内は夕暮れ時の陽光を窓から誘い、赤く、焼けるような色をしていた。
部室の中央に据えられたリングの外で、綱吉はリング上の彼を見つめる。
一定のリズムを刻む足のステップ、連続して繰り出されるフェイントのようなジャブと、時折クリ
ティカルヒットするストレート。サンドバックが、可哀想になるほど勢いよく揺れる。
そして、彼の息遣いと、綱吉の心音。それだけ。
ここにあるのは、それだけだった。
「……」
他人にボクシングをさせようと躍起になっている彼には、常々ツッコミを入れている。けれど、実
際ボクシングをしている彼を目の当たりにすると、何も言えない。
拳の強さ、身に纏うオーラとでも言うべきもの、そして相手を鋭く見つめる眼光。
それは、気迫の違いだった。
キュ、と彼の靴が鳴る。右足を横にずらす音。その後左足で前に踏み込み、打つ。
気迫という点でなら。ぼんやりとした頭で綱吉は思う。
それは死ぬ気状態の自分と同じなのかもしれない。実際、彼は死ぬ気弾を打たれても死ぬ気になら
ない常時死ぬ気男だ。
その…彼が好む言葉で言うなら「極限」の状態、それを追い求めたから、彼は死ぬ気の自分に興味
を持ったんだろうか。
沢田綱吉を、彼は――。
彼は両膝に手を置き、息を整える。上下する肩が、激しい息遣いが。彼の疲労を綱吉に知らせる。
短く刈られた銀に見える髪が、一瞬赤々と太陽に照らされた。
その一瞬を契機に彼は上体を起こす。そしてゆっくり、構えた。
――あ、れ?
綱吉は彼の手を見た。腕から手の甲の辺りまでしっかり包帯の巻かれたその手は、拳の形。
親指は、拳に添えられていた。
――そうだっけ。
さっきから――正しくはもっとずっと前から、綱吉は彼を見ていたのに、今更不思議に思った。
本当は、気にかかるようなことでもない。本番と同じ状態で練習するのは当り前だろう。試合時は
ちゃんと装備をして臨むので必然的に拳と親指は分かれることになる。練習の時拳の中に指を閉ま
っては、本番の想定ができないのであろう。
当たり前だけれど。
――痛そう、だな。
硬いサンドバックに突き刺さるようにして、パンチが飛ぶ。一回、二回、三回。その度、ガードさ
れていない親指がぶつかる。
彼は鍛えていて、自分とは違う。本番は様々な装備が彼を守ってくれる。でも。
彼が歯を食いしばって、連打をする。
痛い、痛い。何が分かるわけでもないけど。でも、痛い。
いつの間にかリングを囲むバーを強く握り締めていて。
「痛…」
思わず声に出したら、
「む?」
彼が綱吉に目を向けた。
「あ…」
バーから手を離す。よたよた、と後ずさり。
邪魔をしたくないのに。いつもの練習と言えばそれまでだけれど、綱吉は彼の邪魔をしたくなかっ
た。
彼が普段の彼でなくなる時。それが、一番遠い彼が、もう一人の自分と近づく時。
自分の死ぬ気と彼の闘う姿が同じなら、いつもの自分たちは案外近い存在なんじゃないかと、うっ
すらと思える時。
だから。
「す…すみませっ…」
綱吉は彼の顔を直視できなくて、目を彷徨わせた。
「どうかしたのか?」
ちらり、と窺うと、きょとんとした彼の顔。言うまでもなく拳は下げられてしまっている。ますま
す心が慌てる。
綱吉は首を横に振った。
「練習…続けてください、了平先輩」
顔を上げた。そうしたら、頭に心地よい感覚が降ってきた。
彼の、手。
そして、彼の笑顔。
晴の守護者にふさわしい、まるで太陽のような。
「待たせて悪かったな。もう片付けるからなっ」
「ひっ…!いえ、その、俺」
男らしく潔く放たれた言葉に、綱吉は慌てる。
――違う、そうじゃないんです。
混乱してショートしてしまいそうな頭で必死に考えて考えて。
しかしどんな言葉も言い訳も、声にならない。
「なあ、沢田」
了平は、ぽつりと言った。いつもと同じ、優しい声。先ほどの闘う姿からは想像もつかない。
「言いたいことがあるんじゃないか?」
「え…」
「ずっと、そんな風に俺を見ていたから」
言われて綱吉は目を見開いた。気付かれていた?しかし、練習時の彼とは目など合っていないはず
なのに!
なんて言えばいいのか、分からなかった。だって、ただ親指が痛そうで。それだけで。
「わかるぞ。お前のことだからな」
照れくさそうに笑われる。自分で顔が真っ赤に染まるのがわかった。
しょうがない。
「せん…ぱい」
「うむ」
綱吉は顔を背けながら、言葉を絞り出した。
「次の試合…も、頑張ってください」
馬鹿。嘘がバレバレじゃないか、これじゃあ。とってつけたにしたって最悪な返事。
何て言われるんだろう、何て思われるんだろう?今更ながらに体が震えた。だがもう遅い。
しかし。
「ああ、勿論だ!」
至近距離で突然飛んできた大声に、綱吉はビクッと体を震わせた。
了平は、笑顔でわしゃわしゃ綱吉の頭をかき回す。
「次の相手は強豪と言われているがな、なあにこの極限パンチニスト了平に勝てる者などいない!
安心しろ、沢田!」
そう言われて、あっけにとられていた綱吉は安心しかけた。了平に微笑み返して、頭から離れてい
く手を名残惜しげに見つめて。
だが、彼が綱吉に背を向けたら、気付いた。彼は騙されたふりをしている。
ボンゴレの超直感なのか、綱吉のカンはよく当たる。
今も、彼の後ろ姿を見たら、なんとなくわかってしまった。
そうしたら、なんだか、泣きたくなった。
ごめんなさい。心の中で謝る。
彼なら、どんなくだらないことでも…それが親指の話であっても、聞いてくれると知っているのに。
――ちゃんと伝えられなくて、ごめんなさい。
「沢田」
了平が振り向いた。しっかり目が合う。
彼の右の拳がゆっくり持ち上げられて、ファイティングポーズの位置…よりも少し高い位置で止ま
る。
親指が、親指だけが、グッ、と立てられた。
「あ、」
「大丈夫だ!必ず、勝つ!」
綱吉は彼の誓いをじっと見つめた。天に、空に向いた親指は、誇らしく綱吉を見つめ返したようだ
った。
それから綱吉は了平を見上げた。大好きな彼の笑顔に迎えられる。
「な?」
そう同意を求められたら。
「…はい!」
笑顔でそう言うしかない。
痛いけれど。その代わり、その指には大切で大事で重大な役割がある。
そう、いつでもそれは、
彼らの恋の、愛の、信頼の、証。
終
大好きです了ツナ!(うわ今一発変換で出たことがかなり感慨深い…!)
でも少ないんですよね…orz初恋のひとのお兄ちゃんを好きになっちゃったって、これ少女マンガのパターンじゃないですか!?(んん?)
お兄さんが親指をぐっ!と立ててくれたら相当かっこいいと思います。読んで下さりありがとうございましたーv
次は、人差し指。