イミテーションスマイル
「栄純くん」
五号室の前ドアに寄りかかって、春市がいる。名を呼ばれて――栄純は、ぎこちない足取りで彼に近寄った。
もうとっくに就寝時間は過ぎ、けれど栄純がこうやって出先から帰ってくるのに春市が合わせられたのは、同室の先輩が教えたからなのだろう。
彼はその絶対的な「無害性」でもってその程度のことは簡単に成してしまい、彼の兄はそれを自らの権力と実力で成した。同じようでいてまったく違うのだと栄純は知っている。
春市は反動をつけてドアから背を放すと、目の前に立った栄純に微笑みかけた。
「遅かったね。どうだった?」
兄貴、元気だった?
春市が静かに穏やかに問うと、栄純はぎゅっと唇を結んだ。
彼が栄純を抱いたのは春市がけしかけたからであって、それは春市のせいだった。
けれどももしそれが無ければ、彼は栄純に対する執着を、ああいう形で示してくれただろうか?
そういう意味では感謝すべきなのかもしれないとすら栄純は思った。瞬間自身に対する嫌悪感が全身を襲ったが、それはぼんやりしただるさの中へと埋没し、いつしか見えなくなってゆく。
ぽとり。栄純の瞳に浮かんだ涙が溜まることなく頬を伝うことなく地に落ちた。
「春、っち」
「うん」
「どうし、て?」
かすれた声の問いに、春市は笑った。彼の名の通り、春の風のようなきれいな笑みだった。
けれどそれは、
「栄純くんが行っちゃうって知ってるけど、止められないんだ」
「でも――」
「好きだから。栄純くんが好きだから」
「好き」。その言葉が栄純を包む。いや、突き刺すのかもしれない。
「兄貴はやっぱり栄純くんのことまだ忘れてないんだね」
「春っち…」
「これからも、忘れないんだ、きっと」
それでも。やはり春市は笑顔のままに言葉を紡ぐ。
いつも通りの優しい笑顔だったけれどそれは、
「俺は――栄純くんが、好きだよ」
春市の存外無骨な手が栄純を引き寄せ、抱きしめた。
引き寄せられる直前まで見えていた春市の笑顔は、どこまでもきれいだった。
けれどそれは作りものだと栄純には知れて。
そんな笑顔は彼だけで十分なのにと思って、彼の腕の中、声を殺して泣いた。
08/11/16