恋の埋葬法
暗い中に蹲っている影の正体はすぐにはわからなかった。
亮介は暫しそれを見つめ、切れかけの街灯に一瞬だけ照らされた黒髪の反射にそれが誰を悟った。階段の中央付近で止めていた足を動かし自分の部屋の前まで歩てゆくと、部屋のドアの隣に体育座りをする少年を嘆息と共に見下ろす。
この少年にアパートの住所を教えた覚えはない。恐らく恥ずかしがり屋の癖に世話焼きの弟から聞き出したのだろうが。
「どうして来たの」
静かな呆れ声の響きに栄純はぶるりと大きく震えた。それは決してわざとではないだろうし、いや実際わざとではなかったのだが、理解できないと亮介はカバンのポケットから鍵を取り出しながら悪態をついた。
「何をしたいのかは知らないけど、投手が肩冷やすなんて最低」
「……」
「そう、クリスにも御幸にも言われたんだろ。もうすぐ夏だからって甘く見るんじゃないよ。それともどうしたの、心配されたくて来た?まさかね、お前はそういう奴じゃないんだろうしね」
手が鍵を探し出してから鍵穴に差し込むまでの時間がやけに長く感じた。どうしたのかという疑問は意味をなさないので無視して亮介はドアを開ける。
栄純はぼうっとした頭の中で、お兄さん、今日は饒舌、とうっすら思っただけだった。
きいい、と軋む音を立てながら開いたドアにも顔を挙げない栄純に、亮介は短く息を吐いた。
「入ればいい」
それで気が済むなら、そう言外に含ませて亮介は先にドアの向こうへ消えた。
栄純は仕方なく膝と向き合っていた額を上げてのろのろと立ち上がる。亮介は今、栄純がついてこなかったらどうするつもりだったのだろう。ああ来ないのか。そう笑って言ってドアをばたんと閉める亮介が容易に想像できた。
昔はそれが普通で――普通だったのに。
栄純はなんだか頭がぼんやりしていて、同時にがんがん痛かった。
暗い部屋には既に照明が付けられていた。彼らしい、とても彼らしいシンプルな、必要最低限のものしかない部屋。生活するにはそれで充分で、しかし少々ストイックすぎるような気もする。彼の今の生活を想像するのを阻むようでもあった。
荷物をベッドの傍に下ろして亮介は低いテーブルの前に座る。突っ立っているのにも限界があり、栄純はテーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした。
聞かれるだろうことはわかっていた。さっきも言われたように、どうして此処に来たのか、そして何が目的なのか。
二つの問いは同じようで全く違っていた。理由は何でもいいのだろうが、目的となるとそうもいかないだろう。
栄純は自分で理由も目的もよくわからなかったから、彼に問われても答える自信はゼロだ。気付いたら会いたくなって、会わずにはいられなくて、たぶん、怖かった。
ぼんやりした栄純を見て亮介は眉根を寄せる。
「こんな時間によく抜けてこれたな」
「先輩、に手伝ってもらって…誤魔化して、もらいました」
それを聞いて亮介は意外に感心した。そういうことをうまく出来ないのが沢村だったから、これは進歩なんじゃないだろうか。
その変化には少なからず自分が関与しているのだろう。誇れるものではなかった。誇らしいと優越を感じることもない。ただそれは、異様な快感となって背筋を這い回った。
こうして栄純と向かい合っていると懐かしいなと思う。話したことはそれほど多くなかった――していたことの奇妙さに比べれば。けれど数か月ぶりに見るその顔は高校時代の記憶をいくつも呼び起こしたし、栄純にしたすべてのことを一瞬でリアルなものへと変化させることができた。
亮介が栄純を最後に抱いた夜も、こんな風に静かだった気がする。よく覚えていないが。
「ふぅん…それで、二年になってちょっとはサボり癖でもついたの?」
「なっ!そんな訳ないですよ!」
笑う亮介に明日はオフなんですだから来たんです、と慌てて言い訳をして、栄純は変わってないな、と苦笑した。彼はいつだって栄純を煙に巻くような物言いしかしないから、一年の初めの頃は常に緊張していた。
でもそれも、この人を形作る要素として栄純が大事だと思うところだから、慣れればそれが当たり前で、むしろそうじゃない彼は妙な気すらしている。とは言っても、栄純にとっての彼はグラウンド上の頼れるセカンドと、夜の不健全な営みの相手、ということに終始していた。行為のときに交わされる会話は微々たるもので、何が彼で何が彼でないのかなんて、本当は今だってわかっていないのかもしれない。
亮介は栄純の苦笑に珍しさを感じながらほとんど栄純と同じ思考回路で「それが珍しいとかそうでないとかは自分が知れるものではない」と結論付けて立ち上がった。コーヒーでいい、俺それしか飲まないんだけど、という言葉にとりあえず栄純は頷いた。行き当たりばったりな行動だったが、案外彼とうまく話せている事実は不思議だった。でも、それもある意味当たり前なのかもしれない。だって、身体の関係って言ったって、それだけ、だったから。気まずくなる必要すら無いのかもしれない。
お兄さんにはコーヒーが似合いますね。そう言うと、何その知ったかぶりは、と突き放される。ああこれ、このかんじ。栄純は嬉しそうに笑った。何が可笑しいんだかと亮介は笑顔のままに呆れて、二人分のコーヒーを作る。部屋に他人を入れるのはあまり好きではないし、前に来た他人は春市だったから、それ以来ということになる。春市はコーヒーを飲まないから(まあどうせ栄純もやせ我慢して頷いたのだろうが)、それこそ初めてのことではないだろうか。
テーブルに二人分を作って置いてみて、一人とは随分勝手が違うなと久しぶりに思った。一人暮らしを始めた時は逆だった――大人数とは勝手が違うなと思ったのだった。
――遠い。でもそれは、俺が選んだことだ。
青道野球部から離れるのは卒業した人間だから当たり前のことで、それについてとやかく言われる筋合いはないが、目の前の少年から離れることは亮介が「決めて」したことだった。
明確な理由は無い。それまでだっていつ切れるかわからないものだったし、卒業と同時に会える機会は無くなるとわかっていた。だから何も言わなかっただけだ。全員に向けて泣きじゃくる栄純の涙のその一滴が、最後に交わした決別の代わりだったのかもしれない。
栄純は今や青道を背負って立つ投手の一人で、それは春市からよく聞かされていた。いつもの通りうるさくて、でもとっても元気だよ、と嬉しそうに語る弟の声が耳元でリピートされる。彼はいつも栄純の話をするのだ。
『ほら、俺が言った通りでしょ、兄貴』
目の前で苦いコーヒーを砂糖もミルクも入れずに飲もうと奮闘して顔を顰める栄純を見たら、その得意そうな声には頷かざるを得ない。
だから今こうやって穏やかに話せるというのは、切れたから、なのだと思う。よくわからない関係には終止符が打たれて栄純は野球に、亮介はごくごく一般的な大学生活に没頭していればそれでいい。すべて笑って「あの時」と済ませられる時期が来たのだ。誰よりも栄純はそれを望んでいたに違いない。
にっこり笑んでまったくほんとうにばかだねおまえ、と流れるように言いながら砂糖とミルクを入れてやる。頭を垂れた栄純が、けれど少し嬉しそうなのは現状に満足しているから、だ。
そう、すべて、時が攫っていったのだ。
「行けそうなの、甲子園は」
「えっ、行きますよ!」
「もうちょっと分析して物を言いな。打率、下がってんだろ」
「……」
栄純はコーヒーの液面をゆらゆら揺らして、春っちですか、と半ば亮介の中では当たり前のことを尋ねた。肯定すると、そうですかー、と間延びした冴えない返事が来る。
妙だった。
試しに、哲と純が抜けた穴が塞ぎ切れてないってわけ、とずばり厳しい指摘をすると栄純は力なく笑った。
亮介は心の中にわだかまりが生まれるのを感じた。
この少年は、こんな笑い方をする子ではなかったはずだ。
自分が教えたのは泣きじゃくって善がることと、泣いて救いを請うことだけだ。笑い方など教えたはずもない。
なら、誰だ。ただの馬鹿に、余計なことを教えたのは。
「…お兄さん?」
栄純は目を瞬かせた。じっと此方を見つめる彼の眼が、やけに一点で止まっていた。それがどこかはわからないが、笑顔が硬く石膏像のようだった。
栄純がかくん、と、首を傾げた瞬間、
「!」
それは、目に飛び込んできた。
すぐさま立ち上がり栄純の側に回り込み、ぎょっとして目を見開いた少年のシャツの襟を引き、首元を覗かせる。
「あっ…?」
「……へぇ」
揺らいだ栄純の瞳と首から鎖骨にかけて付いた赤い痕に、亮介は上擦った声を上げた。
まずはじめに思ったのは嫉妬でも怒りでもなく、こんな薄着でよく他の奴らにバレずに此処まで来れたものだ、という変な感心だった。そして次いで、どうせ知り合いの犯行なのだろうからよくこんなヘマやってられるなと思い、無数の痕に吐き気がした。
そして、気に食わなかった。
何が気に食わないのか自分でもわからない。栄純か相手の男かそれとも自分自身か。葬ったはずの何かを掘り起こされたことによる苛立ちなのか。
葬っただって?何をだ?
「誰?これ」
大きな目を驚愕と脅えに震わせる栄純に、笑いながら尋ねる。
そんな、自分は被害者だと言わんばかりのフリをしたところで、すべては教え込んであるのだ。相手を喜ばせるための方法はすべて。そういう意味で最高の器に違いないのだ。男を誘い込むことにかけては。
ひどくどうでもいいが、初めて栄純を抱いたときのことが頭を過ぎった。あの、何も知らないまっさらな、忌々しい、身体を。心を。汚した。
お前が誘ったの。尋ねると栄純は首を横に振り――一回で止めた。栄純らしくなかった。少なくとも、その行為には単なる拒絶だけではない何かが介在したということだ。亮介はそう理解して、ああそう、と吐き捨てるように言った。
失望だこれは。そう思って、そしてそう思った自分に対しての苛立ちの方が、実際栄純への失望より大きかった。
しかし栄純はまるい眼を伏せて、今度は数回首を横に振った。違うんです、と声がした。
「何が違うって、」
「お兄さん、ですよ」
栄純の風に掻き消されそうなほど弱々しい言葉が亮介の台詞を穿った。
聞き返そうとした亮介に栄純はもう一度、お兄さんなんです、とつぶやいた。
「何言ってるんだお前、そんな」
「だから、俺を抱いたのは、お兄さんなんです…って」
栄純は誰かから言われたことを伝言するように言い、そうなんです、そう言ってました、と泣きそうな声で言った。
滅茶苦茶だと亮介は思い、栄純の首に手をやった。何を言っているのかまるで理解できなかったし、そんなことを言ったのだとしたら相手の男もどうかしている。栄純は騙されたとでも言うのか?亮介の名を語った馬鹿にひっかかったとでも?
――馬鹿馬鹿しい。
顔を挙げない栄純の細い首に手を這わせると、栄純の肢体が目に見えてわかるほどに固まった。首を絞めるように力を込めると小さな口がぱくっと開閉する。
「お、にい、さっ!?」
「別に殺したりしないのはお前がよくわかってるだろう?こうすると感じるんだって教えたの、忘れた?」
そこで栄純の瞳がうっとりと細められ涙がぽとりと落ちた。
安心している、と亮介は直感的に思って思わず手を放した。
――おかしい。一体、どうしたって言うんだ。
けほ、と息をついて、やっぱりお兄さんはこんな感じですよね、とかすかに笑ってさえみせる栄純を未だ頭が混乱したままの亮介は気味が悪いものを見る様な眼で見つめた。
栄純は思った。やはり、亮介は亮介で、彼は彼なのだ、と。
今できる笑顔で笑って、何でもないんです、ごめんなさいお兄さん、と言った。
亮介はそれには答えずに栄純に付けられた無数の傷と痕を見下ろし、シャツの隙間に見えた赤い痕が咲く様に見覚えを感じた。勿論見たことがないはずはないが、これは確かな既視感を伴った。
それは間違いなく自分が付けたものと同じ。そんなことが出来る人間がいるはずはない。なら自分かと言えばそんなはずはない。
でももし――同じにしたのではなく、偶然同じになったのだとしたら、そんなことが出来る人間は、ひとりだけ、だ、
「……、沢村」
亮介は僅かな確信と納得と驚愕で包んだ怒りをまとめて笑顔に纏って栄純を呼んだ。
顔を上げた栄純を勢いよくその場に押し倒すと、黒い両眼に笑顔で問いかけてやる。心の中に煮え滾る何かがひどく厭わしく、愛おしかった。
「お前を抱いた馬鹿は、さぞかし俺に似てたんだろうね」
「ぇ…!?」
「いいんだよ、そうか…成程、ねぇ。血は争えないのか、こわいこわい」
『いつもの通りうるさくて、でもとっても元気だよ』
抑揚がおかしい彼の言葉に、栄純は背筋に怖気が走った。こんな風に彼らしくない亮介は初めてだった。自分自身を無理矢理抑え込んでいるなんて、彼ではないようで。苦しんでいるみたいで。
それは確かに数日前に見た自分を押し倒す親友に似ていた。
亮介は栄純の頬に触れた。久しぶりに触れたそれは相変わらず滑らかで、何でも受け入れそうなしなやかさと艶を持っていた。
にい、と口が三日月の弧を描いた。
「いいよ――今日は俺、亮介じゃなくていい」
栄純の瞳が零れ落ちそうなほど見開き、歪んだ。身体はぶるぶると震え、心の底からの恐怖に抗えきれずに混乱と脅えで揉みくちゃにされた。
「!?や、やだ、やめて…!亮介さん、それだけは、嫌だ!だって、だって、俺はっ」
「何言ってるの、ほら、あいつはいくらでも優しくしてくれたんだろうね――?」
春市は良かったんだろうね、俺よりも?違うなんて言ったら殴るよ?
必死に首を振って否定する栄純に、ははっ!と笑って、じゃあ試してみようじゃないか、と栄純の唇を食らった。
『いつもの通りうるさくて、でもとっても元気だよ』
『ほら、俺が言った通りでしょ、兄貴』
そうだね春市、ものすごくうるさいな。
亮介は嗤って言って、りょうすけさんだけなんですおれがほんとうにほんとうに、きもちいいです、もっと、もっと、だから、と泣き叫ぶ栄純に幾度目かの激痛と快楽を与えた。
亮介が栄純を最後に抱いた夜は、もっと静かだっただろうか。
よく覚えていないが。
覚えていない、と言ったらウソだ、大嘘だ。
(葬っただって?何をだ――?)
08/11/10