あ、足りない
逆光。顔が暗くて表情が見えない。だから、彼は“彼”にも見えた。
けれど今栄純の上にいるのは春市で、彼ではない。
栄純が呆けた顔で見上げてくるのを春市は悲しそうな顔で見下ろす。いつもの、優しく上がった口角は身を潜めて口は真一文字に結ばれている。そのくせ唇はわずかに震えていて、固く閉じられたそれはきっと開いた瞬間を恐れているのだった。
「春、っち?」
栄純が尋ねるように名前を呼ぶと、春市は少し力が抜けたように笑った。
「栄純、くん」
彼の声はやはり震えていたが、武者震いの類のようでもあった。
春市の手が栄純の頬をなぞる。撫でるようで、なぞる。綺麗な指先が頬を辿り額を辿り鼻筋を降り、唇に辿り着く。
そっと栄純の唇から指を離し、もう一度名を呼んだ。
「栄純くん」
「うん」
「ごめん」
栄純は瞬いた。近くで見ないとわからない長い睫が空気を掻いた。
春市は何に対して謝っているのだろうか。今こうやって、少なくとも故意に、栄純を押し倒していることについて?
だとしたら。栄純は思った。それは、順当なんだろうか。
困惑が瞳に浮かんでいたのだろう。春市はもう一度ごめんと謝ると、顔を近付けて栄純の額に口付けた。
「俺はね、栄純くん」
「うん」
「初めからずっと――あの……あの人よりずっと前から、君のことが好きだったんだよ」
あの人。その言い方を春市自身、躊躇って導き出したのは明白だった。
しかしそれよりも言われたことの衝撃が強く、栄純はまた、ぱたりと瞬きする。
「…まじ?」
「うん。で…」
春市は栄純の瞳を見下ろしながら逡巡した。この黒い両眼の前ではどうやったって無力だと思い知る。
「でも、あの人は今はいない」
「そう…だな」
自分達は二年になった。必然的に三年は卒業した。
彼が、どこの大学に行ったのか。栄純だって知っている。でもそれは野球部内の噂と、目の前の彼の弟から得た情報に過ぎない、と言えばそうだった。
真実ではあるだろうが、直接彼から聞いた訳ではないのだ。
「栄純くん」
また名を呼ばれる。名前を呼びたがらなかった彼とは真逆だと栄純は思った。
春市の声音には憧憬と愛情と憎悪、ともすればそれらすべてが混じり合っていて、結局どれでもなくなっていた。強いて言えばすべては欲望へ向いたのだった。
春市は静かに、穏やかに、彼と同じ声で言った。
「好きだよ」
「はる――」
「たとえ栄純くんが兄貴のものでも」
栄純が唾を飲み込むと喉が上下した。驚愕と恐怖によるものだと春市は決め付けて、知ってるよもちろん、と付け足した。
「でも、繰り返すけど、兄貴はもう青道にはいない」
「……」
「連絡、取ってないって聞いた。理由は聞かないけど」
それは事実だった。卒業してからの彼とは全くの音信不通。それが何を意味しているのか栄純は考えあぐねていたけれど、彼なりのけじめの付け方なのかもしれないと思ってはいた。
そして、彼は栄純を抱いたけれど、彼が栄純を好きだと言ったことが一度だってあっただろうか。
目の前にいる彼は彼にとてもよく似ていた。顔も、声も、そのプレースタイルも、そしてそれに、自分を求めてくれるということが今、加わった。
春市は栄純の耳元に顔を埋めた。呼気が首筋に当たってくすぐったく、身を捩ったら笑われた。
――おんなじだ。
彼と同じことをする、とは口には出せない。心の中で思って栄純は目を閉じた。
瞼の裏には何も浮かばない。彼の顔も彼の顔も、何も。
ただ黒い闇とちかちか残光が明滅するだけ。
「栄純」
くん、と、続きを待ったけれどいつまでも熱い呼吸は栄純の耳に届かない。
目をゆったり開けると、顔を上げた春市と目が合った。
彼は綺麗な笑顔だった。なのに、その綺麗な茶色の瞳から零れ落ちた涙が頬に落ちて、栄純は息を飲んだ。
「目、つぶってたら兄貴と変わらないかもね」
「!」
「いいよ、兄貴の代わりで。俺が、小湊亮介で」
だいすきだよ、えいじゅん。
その、とても、亮介に似た声が鳴り響いて、飲み込まれた。
けれど違う。
亮介は決して、栄純のことを名前で呼んだりしない。
決して、好きだと栄純には言わない。
血が滲んでいくような、じわりじわりと広がる痛々しい愛し方しか、しない。
春市は優しいから、慈しむような愛を注いでくれるだろうけれど、それは、決して亮介と同じにはならない、のに。
春っちにはどうしたってそれが足りないんだ、と栄純は思って、あ、と高い嬌声を上げた。
08/11/02