私だけのジェントルマン




 ――ああもうっ!
 栄純は走っていた。そして心の中で悪態をついた。遅れた電車と自分自身と、この凄まじい豪雨に対して。
 待ち合わせは六時だった。そして今は――さっき電車の中で三十回目に見た腕時計の針は八時を過ぎようとしていた。多分今はもっと遅い。
 九十分の遅延なんて有り得ない、と放送を聞いて栄純は思ったが、こういうこともあるのだろう。周りからも「えー」という非難の声が上がったものの彼らは冷静で、得意先へか家族へか、携帯で電話し始めた。
 栄純もそこでようやく携帯で連絡するという選択肢が浮かんだので、慌ててポケットを探る。
 無い。
 瞬間栄純の顔は真っ青になった。
 一体どこにやってしまったのか、カバンにも上着のポケットにも携帯電話は無く、栄純は立ち尽くしてしまった。これでは遅れるも行けないも連絡出来ない。
 栄純の中で不安が膨らんだ。彼はきっと少し位なら待っていてくれるだろう。けれどもう既に数時間が過ぎようとしているわけで、ようやく動き出した電車も酷い雨のためにいつもより倍遅で運行するとのたまいだした。泣きっ面に蜂もいいところである。
 それでも目的の駅に着いた栄純は、人波を掻き分けるようにして走り出した。東京の駅の構造をまだ完全には理解していなかったが、下に行けばいいと思っていた。
 なんとか辿り着いた夜の改札口は順当に混んでいて、栄純の足を止めてしまう。
 ――早く…早くっ!
 ぴょこぴょこ飛び跳ねて連なる人の間から駅前を覗こうとしたが、よく見えない。
 更に雨で滑ってがくんと視界が反転した。
「ぅわっ!?」
 必死に体勢を立て直した栄純は後ろから押されよろめきながら改札から出る。
 きょろきょろ辺りを見回し、肩を落とした。
 ――いない。
 やっぱり帰ってしまっていた。仕方ない。二時間弱――もはや詳しい時間を確かめる気力もない――も待たせておいて何の連絡も入れないなんて、非常識過ぎる。
 呆れて帰ったならまだしも、もしかしたら彼は栄純のことを嫌いになったかもしれない。
 そんなことを考えたら、涙腺が決壊した。
「ぅ…へぐっ…」
 心身共に疲れ果てた身体から緊張が失われ、栄純はぼろぼろ泣きながら傍の柱に寄りかかった。
 きちんとしていなかった自分が悪い。だけれどあまりにも悲しい。
 明日部活で謝ったら、彼は許してくれるだろうか。それとも別れ話を切り出されてしまうんだろうか。いやそれ以前に、彼は栄純の話を聞いてくれるだろうか?
 肩を震わせて栄純はしゃくり上げた。
「ふえっ…!」





「さわむらっ!?」
 半ば悲鳴のような声が聞こえた。驚いた彼の声は普段よりだいぶ高くて、栄純は一瞬誰に呼ばれたのかわからなかったほどだった。
 しかし間違えようがない。それは、自分を待っていた彼の声。
 栄純が勢いよく顔を上げると、こちらに向かって走って来る伊佐敷の姿が見えた。
「じゅ、んさ…ん」
 全身から力が抜けかけ、けれどまだ彼が怒っていると思った栄純は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。言い訳のしようがない。一体どうすればいいのだろうか?
 伊佐敷は栄純のもとへ走って来ると、はあっと息をついた。突然降り出した豪雨を身に受けたせいか彼は全身びしょぬれで、途中で買ったのだろう、手に傘を握りしめていた。
「じゅ、純さん、おれ…!」
 ごめんなさい、という言葉は彼の鬼のような形相で詰まってしまった。
 ――怒られ――
「大丈夫か!?」
「えっ?」
「どっか怪我したとか、事故ったんじゃねーだろうな!?」
 伊佐敷は栄純の全身を忙しなく確かめると、はああ、と息を吐いた。どうやら栄純が事故に巻き込まれたと勘違いしたらしい。
 栄純はきょとんとし、口を金魚のようにぱくぱく動かした。
「じゅ、純さん…ずっと、待っててくれたんすか…?」
「ああ、携帯も通じねえし、五分くらいごとにここら辺探し歩いて、途中で雨に降られちまって…って、お前どうしたんだよ?本当に大丈夫…うえっ!?」
 大きな瞳からぼたぼた涙を流す栄純を見て伊佐敷は目を剥いた。やはりどこか悪くしたのではないか、と思った次の瞬間、栄純は伊佐敷に向かって体当たりをかましてきた。いや、結局体当たりになってしまったが、抱きついてきたのだ。
「ぐおっ!?ど、どうした沢村…」
「大好きです純さん大好きですもうっ、もう放しませんっ!」
 ぎゅううと強く抱きしめられそんなことを言われて、伊佐敷はゆでダコのように真っ赤になった。







08/10/13