左手薬指あけて待っています




 こおおおお、という音が空間を揺らした。
 雷市はこの音を聞いたことがなかったので本当は音の主を目で追いかけたかったのだが、それよりも今目の前の恋人に視線を注ぐので精一杯だった。
 恋人は恋人でそれを察知したらしく、横を見た。ななめ四十五度に視線が上がり、ああ、飛行機だな。そう、むしろ楽しげに言った。
 雷市は肩から提げたカバンの紐を力の限り握りしめた。そうでないとその場に立っていられないような気すらした。
 もう子どもではないはずなのに、決めたことであるはずなのに、それでも恋人を目の前にするとどうしようもなくなった。
 周りを遠巻きに歩いてゆく人の波に数分後には飲み込まれることになるのだ。それもまた、信じられなかった。
 恋人は視線を雷市に戻して、思い出したように口を開く。
「わすれもの、ないか?」
「…ない、と、思う、けど」
 そっか、と恋人が柔らかく微笑むものだから、涙腺がゆるんだ。慌てて顔じゅうの筋肉を引き攣らせてそれを止める。
 また沈黙。
 何か言わなくてはいけないのはわかっている。それは弁解と、謝罪と、愛の台詞と、許されるならば口づけ。
 もし恋人が怒っているならばそれらすべてで対応するつもりだった。
 けれど恋人は、ただきれいな笑顔でその場にいるだけ。
 ――責めて、くれないんだ。
 雷市は唇を噛んだ。それが一番雷市にとって辛いのだと知っているのだろうか。それとも、それが恋人なりの精一杯、ということなのだろうか。
 アナウンスが流れた。アメリカ行きの便がもうすぐ搭乗を終えるらしい。
 どうせ外国なのだ、すべて外国の言葉でアナウンスしてくれればいいのに。そうすれば日本語しかわからない雷市は乗らなくてすむかもしれない、のに。
「雷市」
「わかってる」
 恋人が優しく諭しても、彼はその場を動けなかった。
 なぜか?――恋人が、まだ、彼の前にいるのだから。
 雷市は何かを言いたくて、それでも何も思いつかないからっぽの頭のまま、口を開いた。
「えいじゅん」
「うん」
「……呼んだ、だけ」
 ぐす、と洟を啜った雷市に、栄純は漆黒の双眸を見開いて、くす、と笑った。
 栄純が一歩前に出ると、二人の距離は一メートルくらいに縮まった。
「あっちでも、元気で」
「ん」
「クリス先輩の父さんの知り合いって人、きちんと訪ねるんだぞ?お前英語ダメダメなんだから」
「わあってるってば」
「あと、ええと…」
 栄純はしばし考えて、ちらりとどこか上方を見た。時間だいじょぶか?その問に雷市は頷く。
 そもそも雷市のために用意されたような機体だった。有名人が二人成田にいても問題にならないのも、SPのフォローがあればこそで、多少の我儘も許されるだろうと雷市は高をくくった。
 それほど雷市の実力は国内外に知れ渡っており、高校を卒業とともに海外に渡る、という話は、雷市が夢見たそのものだった。
 父も先生も先輩も後輩も、渋る者応援する者様々だった(父は勿論大賛成で自分も付いていくと聞かなかったが、栄純に協力してもらって止めた。自分一人でやってみたくなったのだ)。けれど彼らに何を言われようと、雷市はそれをバネにすることしか知らない。賛成されればされただけ、反対されたら余計に、メジャー行き目指してがむしゃらになった。
 なのに。なのにこんなときまでこの恋人は、誰よりも最大の敵となる。今は、雷市の背中を押すことをすんなりやってのけようとしている、という意味合いにおいて。
 栄純は左手を上げた。その、日本球界に熱望されて止まない七色のボールを生み出す魔法の手。雷市にとっては何よりかけがえのない愛する人のあたたかな手。
 向けられたのは手の甲で、別に何の変哲もないいつも通りの栄純の手であった。
 その中指に、雷市が贈った婚約指輪が輝いているほかは。
「やくそく」
 栄純は静かに言って目を細めた。
 ああ、雷市ってば泣いちゃうかなあ。そんなことを考えながら。
「薬指、あけておくから」
「っ!」
「待ってる。ずっと」
 だからいっぱい稼いでこい!
 栄純はきらきらした笑顔を見せた。
 一歩は本当はこんなにも近かったんだと雷市は栄純を抱きしめて思った。
 強く、強く強く抱きしめる。栄純の手がそっと背中に回って、雷市、と名を呼ばれて。
 雷市は幸せでこのまま死んでしまいたいとすら思った。
「ごめん…ごめん!」
「俺も、ごめんな」
「ほんとにっ…ほんとに、好きだから、おれっ!」
 じゃあなんで連れて行けないんだいっしょに来てくれないんだあきらめないんだあきらめてくれないんだ俺はどうしてめちゃくちゃにしてでも攫っていかないんだ!
 そう叫んでしまおうかと思ったけれど、力をゆるめてとても近い距離で栄純を見たら、何も言えなくなってしまった。
 誰より強いエースは泣いていた。静かに、けれど絶え間なく。
 大きな黒い瞳が歪んで、昔こんな目を見たくない、だから俺が守るんだと、雷市が思ったそのものの目をしていた。
 前は見たくもなかったその泣き顔に今安堵してしまうのはなぜなんだろう――
「栄純」
「う、ん?」
「すきだ」
 頬の涙を拭いながら、雷市は大好きな大好きな栄純の唇に、いつもの噛みつくようなキスをした。







08/10/05