その日は、セミが、よく鳴いている日、だった。

 

 

 

 

 

近況報告;

 

 

 

 

 

 

照りつける暑い日差し。騒音並のセミの声。

ほどよい重さの木桶。中で揺れる透明な水。その水面にこぼれ落ちる、木漏れ日。

だいぶ古くなって角が崩れかけた墓石をいくつか通り過ぎて、栄口勇人は「おや」と足を止めた。

十メートルほど先に、蒲公英みたいなふわふわ頭の少年が突っ立っていた。いかにも途方に暮れた

ように眉を下げ、じっと目の前の墓石を見つめている。他のものと比べると比較的縦幅も横幅もあ

る、大きな墓石だった。両側に供えられた大輪の花が、枯れて少し傾いていた。

この子がここにいるというのは、よくよく考えてみるとおかしい。実家は群馬のはずだし…それで

も、有り得ない話ではない。

 

 

「三橋ー」

 

 

呼びかけると、びくっ! と肩を震わせて、三橋廉は栄口の方を見た。木桶を提げていない片手を

挙げて挨拶する栄口に、ほう、と息をついてふにゃっとした笑顔を見せる。

相変わらず挙動不審気味のエースに栄口は心の中で苦笑すると――苦笑する様を見せて泣きそう

になられても困るので――のんびりした足取りで三橋の所まで歩いて行った。

 

 

「墓参り?」

「う、ん!さかえぐち、くんも?」

「うん」

 

 

聞いてからバカな質問だなあと栄口は思った。墓に墓参り以外の目的で来るはずがない。それでも、

何気ないほのぼのした会話なら三橋を困らせずに済むだろうし、と言い訳じみたことを思う。

何に、誰に言い訳しているんだろうか。答えはかんたん。誰でもなくたぶん自分に。

三橋は花束を持っている。黄色、白、紅、青、緑が目につく大きなものだが、目の前の墓石が大き

いので派手すぎることもないだろう。そもそも墓の敷地面積自体が他と比べて広い。一部屋分、は

言い過ぎかもしれないが、小さい部屋なら劣るかもしれない。

三橋はじっと栄口を見たまま。不器用なこの少年はいちいち相手の反応を気にするので、行動を促

すためには何か言ってやらなくてはならない。前はちょっと面倒に感じていたが今ではちょっと嬉

しい。

 

 

「花、あげるの?」

「へっ、あ、う、うん、これ」

 

 

手に持った花束をぱたぱた振ってみせる。今にも八分咲きを迎えそうな大きな菊がゆらゆら揺れた。

そんな三橋の様子に笑顔を見せて、栄口はうんうんと頷く。そして辺りを見渡してから、三橋家の

墓を見て、再度三橋に視線を返した。ぱちくり、と三橋が瞬きした。

 

 

「ひとり?」

「う、うん!お父さんと、お母さんも…でも、用事あるから先帰るって…お花、あとになっちゃっ

て、それで」

「うんうん、なるほど。三橋は線香あげた?」

「あ、う、ん!」

 

 

何かの関係で花を買うのが後回しになってしまったんだろう。とりあえず線香だけあげて先に両親

が帰ってしまって、残った三橋が花だけあげに戻って来た、ということらしい。たぶん。

 

 

「じゃああげようか、花。水は…持ってきてないか」

「うっ…ご、ごめんな、さ」

「いーよいーよ、俺の使っちゃおう」

 

 

栄口は少し失礼かなとも思いつつしかし相手が三橋なのでこの方がいい、という思考回路を一瞬で

働かせて、先に一段上って墓の前に来た。う、とか、お、とかいう声が後ろからしたのはたぶん気

にしなくていい類のものなので、木桶を置いて沢山活けられた花の中から枯れているものだけ取り

分ける。水はほとんどなくなっていた。

振り返ると三橋はぼんやり突っ立ったままとりあえず一段高いところには上ってきていた。そのま

ま下で待っている可能性も考えてはいたけれど、そのくらいの行動力はあったようだ。

両手を出すと、正気に戻ったように慌てて花束を渡される。包装紙や輪ゴムをてきぱきと外して地

面の邪魔にならないところに置く。バランスよく二つに分けて――一瞬掃除をするべきか考えたが、

人様の墓でさすがにそれはやりすぎだろうと止めておいた――もともと入っていた花とのバランス

も考えて活ける。木桶の中でしんとしていた水を杓子でくんで水面を波立たせ、ゆっくり花の活け

られた凹みに注ぎ込む。溢れるぎりぎりのところでくい、と杓子を平行にした。

 

 

「よし」

「うわあ…」

「ん?」

 

 

くるりと振り向くと、瞳をキラキラさせた三橋と目が合った。

 

 

「す、ごい!ね!」

 

 

栄口は目をまるくする。何がすごいのかよくわからなかった。とりあえず三橋が何か自分を褒めて

くれたのだから無条件に嬉しいけれど。

でも、三橋の言うことをすぐわかってあげられないのは少し寂しい。

三橋翻訳機である田島や泉は「うー」だの「あー」だのでも三橋が言いたいことは大体理解できる

ようだし、なんだかんだ言ってあの阿部も理解しようと努力している。そもそも三橋が絶対の信頼

を置いているから、意思の疎通が完全には成り立たなくても何とかなっているきらいはある。それ

と比べて自分は……と、そこまで悲観する気もないのだが。

どちらかというと悔しいのかも、と栄口は思った。

それでもあきらめる気は毛頭ないようで。そんな自分は新鮮で、むしろ面白い。

 

 

「ん、何がすごいの?」

 

 

いろんな葛藤があっても特に顔には出さず、問う。三橋はぴくんと肩を震わせると目をキョロキョ

ロさせながら口を開いた。

 

 

「えと、みず、が!」

「水?」

「こぼれなくて、すごかっ、た、よ!」

 

 

へにゃっ、と独特の笑みをこぼす。自然とこちらも口の端が上がっていて驚いた。こいつの笑顔に

は不思議な力があるよなあと感じるのはこれで何度目だろう。

 

 

「そうかー…」

 

 

栄口は目を伏せて、ゆっくり言葉を選んだ。「そうでもないよ」(謙遜?)「三橋って変わってるな

あ」(感心?)「こんなこと、すごくないって」(否定?)

きっとどれも他人の言葉だった。そうでなければ西浦の誰かの言いそうなことだ。田島の言葉はさ

すがに想像つかないけれど…たぶん、「すごいだろ!」(自慢!)あたりではないだろうか。

せっかくだから自分にしか言えない言葉を伝えたい。

 

 

「うん」

 

 

目を上げたら三橋は不安そうにこちらを見ている。まるい薄い茶色の瞳が潤んでいる。

栄口は笑った。

 

 

「ありがとう、三橋」

「う、お」

「褒められて、嬉しかったよ。ありがとう」

 

 

三橋はまた目をキョロキョロさせて、でもまた笑った。少し遠慮がちに、ではあるけれど。自分も

こんな風に笑えたらいいなと少しだけ思う。

セミの声が相変わらずうるさいことを思い出した。頬を汗が一滴、通り過ぎる。

そして自分の用事も思い出した。

 

 

「あ…俺も、墓参りの途中だった」

「へあっ…ご、ごめん、ね…!」

 

 

栄口はぱたぱた手を振って別にいいよと微笑む。

 

 

「今日はひとりで来たから。別に急ぎじゃないしさ。気にしないでいいよ」

 

 

栄口は墓石に向き直り、手を合わせた。目をつぶってから何て心の中で言おうか迷って、とりあえ

ず「ありがとうございます」と唱えた。振り返ると三橋がぎゅっと目をつぶり祈るように拝んでい

るのがほほ笑ましくて、不謹慎だが少し笑みがこぼれた。何を伝えているのかなと想像して、よく

考えるとここに誰が眠っているのかすら聞いていなかったことに気づく。

地面のゴミをまとめて三橋に渡し木桶を持つ。木の取手が生暖かいような気がした。石段を降りて

歩き出そうとして三橋を見やると、物言いたげにこちらを見ている。お礼でも言いたいんだろうと

だけ思った。

 

 

「あ、の…」

 

 

いつも通りのとぎれとぎれの言葉に続けて三橋が何か言う前に、自分でもちょっと意外な言葉が口

から飛び出す。

 

 

「三橋も来る?」

 

 

言ってきょとんとしてしまったのは栄口の方で、けれど三橋は首を縦にぶんぶん振った。

 

 

「い、く!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここの墓地はそれなりに広いが、栄口家の墓は三橋家墓からそんなに遠くはなかった。

それでも数分はかかるので、道すがら二人はやたらとのんびりした会話をしていた。

 

 

「へーそっか、三橋ん家お墓はこっちなのかー」

「うん!…それで、ね、栄口くん、枯れたお花を分けるのも、うまい、ね!」

「はは、ありがと。いつも俺の仕事なんだ、それ」

 

 

三橋は首を傾げる。道幅が少し広くなっていたので、二人は並んで歩いていた。栄口からも三橋の

不思議そうな顔がよく見える。

 

 

「仏壇の掃除とかね。こういう墓参りのときとか、兄弟でやること決まっててさ」

 

 

俺は花係なんだよね、なぜか。栄口はそう言って、広い墓地の中で隅の方、木々の陰が落ちて涼し

くなっている辺りで足を止めた。

縦長の墓石は比較的新しいもので、手入れもよく行き届いているようだった。大きくはないけれど、

そっとした存在感があった。墓石の両側に白く可愛らしい小ぶりの花が活けられ、それでは入れ物

が足りずに花の入った花瓶がいくつか置いてあった。

 

 

「きれい」

 

 

ぽつり、と三橋はつぶやいた。それにも栄口は笑んだまま、一段上がる。

たぶん三橋は知らないはずで、別に自分は知ってほしいとかは思っていない。だからいいのだけれ

ど、でも誰か家の人間以外をここに連れてくると意識せざるを得ない。

墓石の側面に刻まれた、たったひとり分の名前。

三橋は鈍感だけど、でもところどころ妙に鋭いから、気付くのかもしれない。それならそれでいい。

ここに眠ってるのは母さんなんだ、とちょっと寂しそうに笑ってやればいいから。

 

 

――まあでもこれも、だいぶ言い訳っぽいなあ。

 

 

時期が時期だから親戚が掃除をしてくれたらしい。三橋がいる手前あまり待たせたくなかったし

(てきぱき作業をこなしたらそれはそれで喜びながら待っていてくれるのだろうけれど)ちょうど

よかった。

躊躇う三橋を手招く。口の中でおじゃまします、ともごもごつぶやいてから、三橋はゆっくりと、

たった一段の段差を上った。

栄口はそれを見届けてから、さっきと同じように水を注ぐ。多目を心がけて汲んできたのが功を奏

する形となって、すべての入れ物にたっぷりの水が行き渡った。ちらりと三橋を盗み見ると、また

瞳が輝いていた。

木桶を置く。からり、と金属製の杓子が音を立てた。日がだいぶ陰っている。セミは相変わらずう

るさいが、どこか遠くから聞こえるような声で鳴いていた。

一ヶ月に一度は必ず来ている。ここに来るといろいろと自分を振り返ることができるから。そして

妙に謝りたい気持ちになる。母親に生前してあげられなかったことを悔やむとかじゃなくて、学校

であった嫌なことだとか、部活での失敗だとかに対して。ここがとてもきれいな場所だからなんだ

ろう。神聖、は言い過ぎかもしれないけれど、教会で懺悔するようなものだ。

ポケットからチャッカマンと線香の入った箱を取り出す。線香を十本ほど取り出して火をつけよう

として、手を止めた。

 

 

「…――」

 

 

セミはよく鳴いている。でも思いの外うるさくなくて、残念ながら栄口の声をかき消してはくれな

かった。

 

 

「三橋」

「う、ん」

「ここね、俺の母さんが眠ってるんだ」

 

 

墓石に目を移して、それだけ言った。

寂しそうに笑ってはいなかったと思う。泣いてもいないし、無理して微笑んでもいない。ただ、事

実を事実として言っただけのようだった。

茫然とした顔を想像しながら三橋を見ると、目から、ぽとり、涙が落ちた。栄口は大きく目を見開

く。

浅はか過ぎた。こういうことに、きっと三橋は慣れていないのに。

 

 

「…っ!ご、ごめん三橋、」

「ち、ちが…う」

 

 

えぐえぐ、と嗚咽を漏らしながら涙を拭い、三橋は首を横にぶんぶん振った。

 

 

「……」

「ふ…ううっ…」

 

 

栄口はここでようやく、誰かにこんなところ見られたら、という思考に辿りついた。それは自分の

体裁を繕うだけのばかばかしいものだけれど、不思議と罪悪感は感じなかった。そんなことより三

橋をなんとかしなくてはという思いが勝っていた。

小さな涙がぽろぽろ落ちて、三橋の服や地面を濡らした。

何かを言おうとして、何も思いつかなくて栄口は口を閉じる。やっぱり自分は三橋の望む言葉はあ

げられないのかもしれない。

でも。

 

 

――田島みたいになんでもわかるわけじゃない。阿部みたいにわからないなりに怒ってやれるわけ

でもない。

 

 

それでも。

 

 

――俺は、待ってあげられるから。

 

 

三橋のペースが追いつくまで、ずっとずっと、待つことだけはできるから。待って待って、その言

葉をすくい上げることはきっと誰よりもうまくできるはずだから。

だから。

 

 

「ゆっくり、でいいから。いいんだから」

 

 

子供にするみたいに言い聞かせて、ふわふわした頭を撫でる。とても心地よい肌ざわりだった。

三橋はこくこくと頷いて、手の甲で目をこすって栄口の目を見た。濡れた赤い瞳は痛いほどだった

が、不思議と強い光を持っている。

 

 

「あの、ね」

 

 

涙声はちょっと頼りなく震え、ひくっと嗚咽の残りが喉の奥で鳴った。それでも栄口は優しい顔で

言葉を待つ。

 

 

「うん」

「あ…りが、と、う」

「………え?」

 

 

栄口の驚いた表情に、三橋は不安そうに眉を下げた。それでも伝えたいという思いが珍しく弱気な

エースを突き動かして、もう一度、小さく口を開く。

 

 

「ありがとう、栄口く、ん」

「……」

 

 

ゆっくり、ゆっくり。三橋の言葉を頭に滲み渡らせる。それでもまだよくわからなくて、栄口はに

こ、と笑ってみせた。

 

 

「うん…えっと、何が、かな?」

「あっ…あの、今の、」

 

 

三橋は忙しく墓石を見た。灰色っぽい石に木漏れ日が降り注ぐ。

そういえば、こんな木漏れ日の下で母さんとお弁当を食べた。栄口の脳裏にかすかに思い出がよぎ

った。

 

 

「お母さんの、話…教えて、くれて」

「……」

「うれしか、った、よ!」

 

 

三橋は必死に思いを伝えようと大きな声で言った。

 

 

「…三橋」

 

 

そうだった。この子はそういう子だった。

誰よりも“関係”に飢えていて。昔のこともあっただろうし、もともとの性格もあって、他人のこ

とにとても敏感で。

たぶん…いや、絶対。三橋はこの話をすることがどういうことなのか、わかっているのだ。栄口に

とって、どういうことなのか。

だからお礼ができる。辛いだろうにありがとう、ではなくて、大切な大切な記憶を共有させてくれ

たことに対する、感謝。

 

 

「う、れしか、った…!」

「…うん」

 

 

栄口は視線を落として目を閉じた。目が水気を帯びて、震えた。それでも泣きたいわけじゃなくて、

ただ嬉しい。

 

 

「俺も…ありがとう。三橋」

 

 

静かに目を開いて、視線に入った握りしめたままの線香にカチャカチャと火をつけた。赤い炎はす

ぐ消えて、灰色の部分が煙を上げる。

束をふたつに分けて、片方を三橋に。

 

 

「これ……三橋も、あげてくれる?」

 

 

三橋はじっと線香を見つめて、かすかに首を縦に振った。栄口の手から線香を受け取って、墓石を

まっすぐに見つめる。もう涙は出ていなった。

栄口はしゃがんで線香をあげた。墓石を見上げて、手を合わせ、目をつぶる。

明るい暗闇の中、三橋がいるという気配と、母親の気配とを追いかけて、思う。

 

 

――母さん、こいつが、俺の好きな子だよ。弱虫で、卑屈で、何考えてるかわからなくて。それで

も俺のこと必死になってわかろうとしてくれる、俺の大好きな子だよ。

 

 

目を開けて立ち上がり、場所を三橋に譲る。三橋は栄口にならってしゃがみこみ、そっと線香を置

いて手を合わせた。

 

 

――ありがとうござい、ます、栄口くんのお母さん。俺、栄口くんと会えて、よかったです、だか

ら。

 

 

三橋が立ち上がる。栄口を振り返って、目をのぞきこんだ。ふ、と笑みをもらす栄口。

 

 

「母さんに、報告できた」

「お、おれ、お礼、した、よ!」

「そっか!ありがとう」

 

 

 

俺、一日でありがとうってこんなに言ったの初めてだよ!そう栄口が言ったら、

おれ、も!そう三橋は返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その日は、セミが、よく鳴いている日、だった。

 

 

 

 

 

 

そして、そんなこと気にならないくらい、目の前の相手がいとおしい、日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

07,8,12