放課後デイツ

 がたん、と立てたイスの音が合図だった。



 泉は三橋の前の席を移動させ、三橋の机とくっつける。始めるか、という前に、がたん、とイスが鳴った。


「……」
「……」


 目が合って、向かい合って座った二人の動きが止まる。
 互いの顔を、瞳を見つめて停止した時間はしかしさほど長くはなく、すぐにどちらからともなく――一瞬目をつぶってから――目をそらして三橋は机の中を、泉はカバンの中を漁り始めた。
 泉が出したのは国語の教科書と宿題のプリント。机上にそれらを置いて一息つくと、三橋はまだ机の中を探っていた。今日渡されたばかりのプリントですら、置き勉している三橋の机の中では簡単に行き方知れずになってしまうらしい。
 プリントを探すだけなのに必死になっている三橋を、頬づえをついてぼんやり見つめる。これも違う、あれも違う、というようなことをぶつぶつ小声で言いながら、三橋はやっとくちゃくちゃになったプリントを取り出した。
 そして待っていた泉を見やり、恥ずかしそうに頭を垂れる。


「ご、ごめ、ん」
「いーよ」


 そっけなくそれだけ言って、泉はぱらぱら教科書を繰る。現代文のプリントというやつはだいだい教科書を見れば答えが書いてあるので楽だ。
 範囲のページを開き、筆箱を漁る。シャーペンをカチリ、カチリとノックして、プリントに名前を書いて。
 泉はもう一度、三橋を見る。
 三橋のしていることも泉と大して差はなく、ただし三橋は行動が二倍遅くてまだ範囲を探していた。授業中寝ていることも多いからよくわかっていないだけなのかもしれないが。けれどようやくページを探し出し、シャーペンを手に取った。プリントに名前を書いて(汚ねー字…)うーんうーんと考え込む。
 泉の方を向かないのは、わざとだろうか。それとも、プリントに集中してしまっているから?
 一問目から悩みだした三橋から、自分の課題へ視線を落とす。一問目は漢字の書き取りと読みだった。高校ともなると難しい漢字のオンパレードのような気もするが、それは案外間違いである。常用漢字はほとんど中学で習うものであり、高校で学ぶものはそれより若干高度といったところだ。変わっているのは読みくらいで、中学の知識で解けるようなものも多い。そもそも教科書の本文中にすべて答えは書いてあるわけで、何をそんなに迷うことがあるのだろう。
 三橋同様寝ていることの多い泉だが、持ち前の要領のよさであっという間に漢字を探し出し空欄に書き込んでゆく。
 ふたりだけの教室に、シャーペンの文字を刻む音とふたりぶんの呼吸、それから三橋の唸り声がときどき混じりこんで響いた。遠くでどこかの運動部が声を張り上げるのが聞こえる。そんな声は夕方の光が差し込む教室に入り込んできては、少しだけ空気を歪ませて出ていった。
 三橋を盗み見ると、プリントと対峙して泣きそうになっていた。まだ一問目だ。
 泉は自分の教科書を百八十度回転させて、三橋に向けた。


「三橋、ここ」


 声をかけるのとほぼ同時に三橋の瞳がこちらを捕える。ほんの少したじろいだ泉には気づかず、三橋はうおっと言いながら泉の示したページを開いた。とは言ってもすぐ二、三ページ後。
 一生懸命に漢字を探す三橋を見て、泉は教科書を自分のもとに戻しながら、これは和やかな気分やほのぼのした空気からは程遠いと感じていた。ここはむしろとても緊迫していて、気の抜けない空間だった。そしてむしろ“今”は、何か強い感情を持った瞬間世界が瓦解してしまうような、そんな危うい緩さの上に成り立っているようだ。三橋と、ふたりだけの、惰性で成り立っているような脆い場所。
 教科書とその下敷きになっているプリントに目を落とす。今勉強していることがいつ役立つのかなどと使い古された文句をたれるつもりはない。けれど、もし役立つ日がくるとしても、それはきっと自分が望んだときではないのだろうと思う。ある日突然これらは役割を帯びてくるのであって、役に立ってくれと思うときには知らんぷりを決め込むにちがいない。
 シャーペンを持った手が汗ばんでいた。一度机上に置いてズボンで手を拭き、また手に取る。早く終わらせてしまおう。なぜだかそう思った。
 そうしてまた、沈黙が落ちる。
 思ったとおりプリントは教科書の内容丸写しでほとんど解けた。最後に高校で出す問題としていかがなものかと泉は思ったが、「感想を書け」といった類のものがあり、それだけは考える必要があった。あまり内容を批判しても説得力があるものになると思えず、泉は適当に筆者の意見を肯定しつつ最後を「よくわからなかった。」でしめた。
 もう何度目になるか知れなかったが、三橋を見る。三橋にしては奮闘しているらしく、プリントの七割が解けていた。へぇ、と泉は感心し、最後の問題がまだ手つかずなのに気づく。分かるところから解きなさい、というのは鉄則のようなものだ。そっちの方が簡単だぞ、と三橋に言おうとした。
 すると、ゆっくり上がった三橋の瞳と泉の瞳が、見合った。
 三橋の瞳は、あの、マウンド上の、まっすぐで美しい琥珀色を湛えていた。


「あ――」
「ひゃ…!」


 慌てて下を向く三橋の頬は、どことなく赤い。
 泉はまるい目を大きく見開いてそのつむじをまじまじ見つめると、三橋の「ごめんなさい」が出てくる前に机に手をつき立ち上がった。イスががたんと鳴った。
 驚いて顔を上げる三橋に、軽く息をつきながら。


「のど渇いたから、なんか買ってくるわ」
「ぁ…」
「三橋もなんかいるか?」


 「買ってきてやるよ」という言葉が出る前に、三橋の手がまっすぐに動いて泉の腕を掴む。
 泉はそれに純粋に驚き、三橋は三橋で自分の行動にひどく驚いた顔をした。
 何かの鳴き声がした。それはたぶんカラスか何かだったのだろうが、どことなく獰猛な気配を帯びた唸り声のようだった。


「あ、い、らな、俺…」
「………なんも、いらないって?」


 いつもと変わらない声音に安心したのか、三橋は少し表情を和らげる。ひとつ、大きく首を縦に振った。
 のどが渇いているせいか、泉は心臓の音がのどの裏側に突き刺さってくるようで痛かった。全身に血をめぐらせるたび、その力は強くなってのどを突き破りそうになる。


「あ、あの」
「どうした?」


 か細い声にかぶせるように尋ねた。いくら自分の声が緊張と決壊への恐れで震えていようとも、三橋に気づかれるはずがなかった。だって三橋なのだから。しかし妙なところに敏感なこの少年は、ときたますべてを知っているようなそぶりを見せるから怖い。
 そして、ときどき恐ろしい言葉を吐くのだ。
 ぎりぎりで成り立っている世界をいとも簡単に破壊させてしまうような――




「いか、ない、で」




 泉は全身が硬直する音を確かに聞いた。
 三橋廉をひどく恐ろしく感じた。どうしてこの子は、簡単にこんなことを言ってのけるのだろう。本当は三橋だって必死に絞り出した言葉のはずだが、泉には天然で容易にやっているようにしか思えない。
自分は今ひどく脅えた顔をしているにちがいない。それを見ても、三橋は目をそらさなかった。


(どこにも、行かねえよ)


やっと。やっと、泉は震えるすべてを叱咤して、三橋の手を振り払わずに席に着いた。またがたんとイスが鳴る。静かに座ればいいのに何で、と泉は自分で不思議に思った。


「ごめん、なさぃ…」


 三橋はうつむいて、それでも現金なことに手はしっかり泉の腕を掴んだままでつぶやいた。気付くとその手は震えていた。
 情けない、と泉は心中でため息をついた。本当に情けない話だった。少なくともこんな三橋から逃げ出そうとした自分は、誇れるものじゃない。
 だから世界が崩壊しようが決壊しようが、もはやどうでもいいことになり下がった。三橋にその決意があるのなら、こんな空間破壊してやるしかない。


「俺――のど渇いてるから」
「うん…ごめん、なさ」
「だから、水分補給させてくれ、三橋」


 三橋が言葉の意味を考え始めるよりも先に、泉は手を伸ばし三橋の頬に沿えて、腰を浮かした。
 がたん。イスが鳴って。
 唇と唇が、触れた。


「!?」
「――」


 いつの間にか目を閉じていた。人間の唇から味がするわけもないが、想像通りやわらかくて好ましい感じがした。
 どれだけの間、その感触に身をゆだねていたのかよくわからない。
 名残惜しそうに泉は唇を離し、真っ赤な顔の三橋はようやく泉の腕から手を離し、たった今奪われたばかりの口を覆う。泉はそれを見て、自分の顔も大して変わらない色をしているのだろうと容易に想像できた。
あのだらだらと緩やかな世界は、きちんと崩壊したのだ。
 泉は三橋を全身で意識しながら無視して、プリントを見た。シャーペンと消しゴムを取って、最後の問題のラスト一行を消した。「よくわからなかった。」が、「いいんじゃないかと思う。」に変わった。


「い、ずみ、くん」
「――ん」
「のみもの、買ってキマス…」


 は?と泉が眉をひそめる前に、三橋は勢いよく立ちあがると走って出ていってしまった。
 まあ自分が先に使おうとした手なので非難もできないが、ここでエスケイプか、と泉は三橋がいるときには決してできない大きなため息をついた。
 そしてシャーペンを机に放り出し、思い出したようにカバンの中から財布を取り出すと教室のドアへ向かう。
 出る直前に振り向くと、そこはなんとも寂しい光景だった。
 こんなところに取り残されそうだったのかと軽く息を吐き、泉は手ぶらで自販機へ向かった三橋のもとへ走りだした。
 次の放課後にはもう少し、恋人どうしっぽくならねーかな、と思いながら。









 イズミハ祭「one star」様に寄稿させて頂いたものです。イズミハイズミハイズミハ…と手探りなのが文章の端々から読み取れてなんだか苦笑してしまいますね(笑)。
 題名が複数形なのは二人の放課後はいつだってデートだよ、という意味を込めてみました。イズミハは間合いが絶妙なカプだと思い込んでいるのでこんな感じに。
 読んで頂きありがとうございました!




08,2,3

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