ふたりの、三橋
夢を見た。とても懐かしい、ゆめ。
いつのことだか定かではない。が、小学生の頃だろう。なんとなくランドセルを背負っていたような気がするし。
そして、そう、夕暮れ。夕暮れが叶の影をどんどん伸ばしていく。
そばには三橋瑠里がいた。昔から気が強く、ガキ大将の叶でさえときどき言いくるめられている近所の女子だ。幼馴染と周りからはやし立てられるのが互いに大嫌いで、男子であろうが女子であろうが怒鳴って訂正させていた気がする。
その三橋が、え?と、聞き返した。でもそれは叶に対してではなく、三橋を挟んで叶の反対側にいる少年に対してだった。
夕暮れに茶色の頭がふわふわ頼りなく揺れる。
れ、ん。
夢の中、叶はつぶやいた。けれどその声は過去の自分たちには届かないらしく、誰も返事をしてくれない。
ただ、夢の中の三橋廉は三橋瑠里を見て、大きな瞳をぱちりと瞬かせた。
――レンレン、おっきくなったら、ルリのことおよめさんにしてくれるんでしょ?
こちらを一向に振り向かない三橋瑠里は嬉しそうに言った。なんだか女の子特有の甘ったるい声で、イラついた。
そういえばさっきから彼女は叶をまるで眼中に入れない。それでよくこの少女が三橋だとわかったな、と叶はぼんやり思って、ああ、夢の中だから?とあっけなく結論に達した。
う、お。廉がまた目をぱちぱちさせていつものどもり声を出す。
――なんだよそれ。
夢の中の幼い叶が言った。まだ変声期を迎えていない、少々舌っ足らず気味の言葉に叶はなんだか居心地が悪くなる。
幼い叶は怒っているようだった。何に対してかは――よくわからない。現在の叶がこの場面に遭遇したら怒る理由など一つしかないのだけれど、昔の自分のことなど覚えていないのだ。
――なんだよって、なによ。レンレン、そう言ったもの。ね?レンレン!
――ヘンだよ、だってイトコなのに。ヘンだよな、れん!
――お、おれ、
今よりはまだどもり具合が小さかった廉の声が二人に割り込んで、遠くでカラスがかあと鳴いた。
廉は二人に顔をのぞきこまれて目を大きく開いて驚いていたが、すぐに機嫌を伺うような上目遣いで叶と三橋瑠里を見ながら口を開く。
――言ったと、思う、よ。
世界がぐらりと揺れた。空の黒い部分オレンジの部分が一瞬ごちゃまぜになって、世界が反転しかけたが、またもとに戻る。なんだ?と叶は訝った。
三橋瑠里はそれはそれは嬉しそうに微笑んで、廉の手を取った。
――よかった。わすれてなかったのね。
三橋の声を聞いた途端、唇に妙な痛みが走った。見ると、幼い叶が唇を噛みしめている。彼は泣きそうだった。
――おれだって、
叶の震える声が世界に反響する。
笑顔のままの三橋瑠里と、
きょとんとした三橋廉の顔が一瞬アップになって、
夢は、途切れた。
朝練がなくて嬉しいのなんていつぶりだろう。前日夜遅くまで起きていて起きるのが億劫だということはときどきあるけれど、練習自体が嫌だなんて滅多にない。それほど叶は野球が好きだったし、学校が好きだった。
しかし今日ばかりは、何もなくてよかったと思う。最悪の目覚めなのだから。
朝練がないのならば早く家を出てもどうしようもないが、なんだか早く起きてしまって手持無沙汰で、歩くのでもなんでもいいから身体を動かしていたかった。
それから万が一登校途中で三橋に会ったりでもしたら、いったいどんな顔をすればいいのだろう。というか声を発する自信すらない。
だから彼女が家を出るよりずっと早く学校に向かえばいいと思ったのだ、が。
「あ、おはよ、叶」
「………はよ」
家を出たところではち合わせるなんて、何かの奇跡だろうか。もはや呪われているのではと叶は深く深くため息をつく。
ルリはそんな叶の事情など知る由もないので、二人で歩き出した途端ため息をつかれ、いささかムッとした。
「なによ、そんなにあたしに会うのが嫌だったわけ?」
「べつに…っつーか、なんでお前今日こんな早いんだよ?」
「…さーねー?」
ルリはうふふと女の子らしく笑うと、そっぽを向いた。まるで何か隠している風情ではあったのだが、叶は自分のことで手一杯なのでどうでもいいかとそこは無視する。
女というのは結構面倒なものだ。それらしい台詞を吐いておいてこちらが問いたくなるような雰囲気に持っていくくせに、結局答えは教えない。ここで理由を尋ねたところで、三橋瑠里が素直に答えるとは到底考えられなかった。
むかつく。叶は内心舌打ちをし、おそらくそれが今ここにいる三橋瑠里に対してではなく、あの夢の中の彼女に対してなのだと気づいて自分が嫌になった。
「……三橋」
この話題を振るのは自分としても嫌な思い出を掘り返すだけなので避けたかったのだが、自分一人では細かい記憶をすべて思い出せそうになかった。仕方なく、叶はルリに尋ねる。
「あのさ…昔、廉がこっちに遊びに来たの、覚えてるか?」
「昔って……いつ?」
「覚えてない。けど…たぶん、小学生の頃で、夕方、だった」
そんな断片的な記憶で思い出せるはずもないだろうと叶はあきらめ半分だった。しかしルリは大きな瞳を瞬かせると(その様子が誰かに似ていた)、ああ、と笑う。
「覚えてる。レンレンが、あたしたちを学校まで迎えに来てくれたとき、よね?」
「…あー」
だからか。だから当然の話だが、あのとき廉はランドセルを背負っていなかった。あれは夢だが、やはり夢じゃない。
「懐かしい、ね」
ルリがぽつりと言って、叶は素直に頷くことができなかった。
あのとき、確かに廉は「ルリが好きだ」というようなことを言ったのだろう。そんなのイトコどうしだし気にするほどのことでもないが、やっぱりあのルリの笑った顔が頭にこびりついている。
「なあ…」
「覚えてる?あのとき、レンレンがあたしをお嫁さんにしてくれるって、言ったの」
なんだよお前思いっきり覚えてんじゃねーかよ、と叶は言いかけ、喉元で止めた。いかにも楽しそうにルリの声が響きそれがまた叶をいらつかせる。
正しくはそう言ったのではなく、そう言ったということを肯定した、のだ(確か)。それを廉本人の口から聞かなくて幸いだったのか、それとも――
「その後さ、……おれ、何て言い返したんだっけ」
まだ朝靄の残る住宅地を進みながら、叶の声は静かにその場に溶けた。
叶は「おれだって」と自分が言った言葉の続きを覚えていない。いや、本当はわかっているも同然なのだが、それを認めたくないのだった。
認めるということはすなわち、過去の自分の意気地なさと、痛々しい失態を暴露することになる。
それもその暴露自体自分以外へは何ら影響しないというのがこれまた悲しい話だった。
ルリは叶の言葉に驚いた表情を見せると、またあらぬ方向へ視線を飛ばした。叶からは彼女の表情が見えない。
「確か、あのときは、さ」
「……」
「おれだって、三橋のことが好きなんだよ、…って、言わなかった?」
最悪だ。叶は頭を抱えられるものなら今すぐ抱えて逃げ出したかった。
しかしもう高校生にもなって幾分常識とか無駄な度胸とか世間体?とかが身についてしまった彼は、真っ赤になった顔を覆うしかない。
それを見てルリは微笑む。誰が見ても文句なく、可愛いと言える笑顔で。
「思い出した?」
「…出した。すっげー忘れたい。消したい事実」
「みはしのこと、ねえ?」
「……」
ルリは黙ってしまった叶を見て声を上げて笑う。お嬢様がそんなことしていいのかというくらい、今度の笑いは豪快だった。笑いすぎて涙まで浮かんできている。
叶は悔しそうにルリを睨みつける。だから聞くんじゃなかった。そう言っても後の祭りだ。
「あーおっかしいっ!叶にも可愛い時期があったんじゃないの」
「うっせーな…忘れろもう」
「忘れてないよ。少なくとも、レンレンは」
叶は逸らした顔をルリに向けた。廉?どういうことだ?顔にはありありとそう書いてあり、ルリはまた吹き出しそうになる。
相変わらずね、と心中でつぶやいて、ルリは叶の一歩前に進み出て歩き出した。彼女の後ろ姿はなんだか妙にたくましい。
「知らなかったと、思ってるでしょう?」
ルリの声が大人びて聞こえた。あの夢の中の、舌っ足らずで甘くてなんだかむかつく声とは違っていた。時間の変化を感じ、同時に何か歯車のズレを感じた。
あの頃まだ短かった髪は一度腰近くまで伸び、そして今は三つ編みとなって揺れている。
「知ってたよ、あたしは」
何を――そう聞こうとして、だが声が出なかった。出せなかった。
「叶、あの頃から変わってないでしょ。好きなひと」
心臓が、揺れた。足を止めそうになり、慌ててずんずん先へ進むルリを追いかける。
まさか。いやまさか、そんな。
彼女があの言葉の本当の意味を知っているなんて、あり得るはずがない。だって。
ルリはすう、と息を吸って、言った。
「叶が好きなのは……叶が好きな“三橋”は――レンレン、でしょう?」
「!」
図星。それが一番正しい返答だった。
ルリは横目で振り返り、叶が止まってしまったのに気づいて足を止めた。
叶が廉を好きなのは、もうだいぶ前からだった。それこそ一目惚れに近かったのかもしれないが、廉といっしょにいれば幸せだったし、あの子が笑顔でいてくれると自分も笑顔になれた。初めて守ってやりたいと思って、初めて――本当は反則なのは十分承知で、寝ている廉にキスした。そうして、この子のことが好きなんだと、だんだん自覚も生まれていった。
だが本当に自覚を認めたのは、中学に入ってからだ。となると、あの記憶はまだ叶が廉をそう言う意味で好きかよくわかっていなかった頃だと思う。
なのに、なぜルリはわかったんだろう?
「女のカンをなめないでよー」
そうですか。そういうもんですか。
叶はどうも納得できないまま、ようやく足を踏み出す。ルリは彼が自分と並んだのを見計らっていっしょに歩き出した。
「だって叶、あからさまなんだもの。レンレンのことばっか気にかけるし、他の子には見向きもしないし」
「それは……」
「だからさ、あたし、あれは自覚のせいかって思ってたの」
だから止めなかったんだよね、名字呼び。叶がルリに目を向けると、彼女は苦笑していた。眉尻が下がって、廉に似る。
ルリは今自分がどこにいるか忘れないように辺りに素早く視線を走らせた。まだもう少し、目的地までは距離がある。それはイコール学校、ではない。
「中学に上がって、叶がレンレンのこと“三橋”って呼び始めたとき、もしかして自覚したのかなって思った」
「は…」
「叶がちゃんとレンレンのこと好きだって。だからあの日に見合うように、って、“三橋”って呼び始めたのかって」
――あ、れ?
そういえば。同じ頃だったかもしれない。自覚、も。
いやでも待て自分、と叶は腕組みをした。そんなバカな話はない。だって廉を“三橋”と呼ぶようになったのは、単純に廉が「叶くん」と呼ぶようになって、名前呼びが嫌なのかと思って、それで、のはず。…はず。
おれだって、三橋のことが好きなんだよ。確かに、そうすればぴったりの意味にはなるが…。
自分の知らないところで自分がそんなことを考えていたのならいろいろと大問題だ。若気の至りってやつか?叶は純粋に青くなる。
「…いや、それは、ない」
「ふーん」
叶の絶望の混じった全否定を聞くと三橋瑠里は立ち止まり、合わせて叶が立ち止まったのを確認してからどこへともなく声をかけた。
「だってよー、レンレン!」
「…っええ!?」
ひょこ、と、前方の十字路から久しぶりに目にするあたたかな茶色が飛び出てくる。
今日は祝日でもないというのに、三橋廉は私服姿だった。
廉は状況をどの程度理解しているのか定かではないが大して驚いた様子もなく、ただただ懐かしい幼馴染に会えた嬉しさゆえか頬を紅潮させた。
「あ、あう、おはよ、しゅうちゃ、」
「な――なん、なん、なんっ!?」
廉を指差し大混乱する叶に、ルリはにやり、とひとつ笑い。
ああ、こうまで想像通りのリアクションが返ってくるとは爽快ね、と気分がスカッとした。
「ごっめん叶。あたしひとつウソついた」
「は!?」
「女のカンっての、ね。あれ、ウソ」
「んなのわかって…」
顔を真っ赤にして拳を振り上げ叫ぶ叶と、不思議そうな顔の廉を見比べ、、ルリは廉を指差す。
「レンレンから聞いてました」
「……ぇ?」
「う、おっ!?」
途端赤くなったのは三橋廉の方で、叶はすでに頭がパンクしかけていた。
廉から、聞いていた。叶修悟が三橋廉を好きなことを?いや、廉が気づくはずがな――
「レンレンが、叶のこと好きだって言うから、七年前も今も、協力したのに」
「へ。」
「る、るるるルリっ!?」
廉が大慌てでルリの口を塞ごうとしたが、額にデコピンをくらいあえなく撃沈。
――そうするとあれか。廉が俺のことを好きだってことで、三橋はあんなことを言い出して、なら、あれはぜんぶウソ、で………
見ると、廉の顔はゆでダコに匹敵するほどの赤さだ。つられて修悟も真っ赤になる。
「何年待たせたのよ。ばーか」
ルリは修悟の額にも軽くチョップをすると、真っ赤な二人を見比べてから腰に手を当てて仁王立ちした。
「さて問題です。なんであたしたちはこんなにも、七年前のことを鮮明に、今日、思い出したのでしょう?」
本当はあたしは忘れたことなんてなかったけど。そう心の中で付け足す。
廉が手を挙げ、ぼそぼそと何か言った。よく聞き取れない。
「レンレン、はっきり言いなさい」
「…あれ、が、七年前の、きょうだから、です……」
「当たり。じゃあ、七年前の今日、レンレンは何をしに群馬まで来たのでしょうか?」
廉と修悟は顔を見合わせた。そんなこといちいち覚えているはずがない。だが何の理由もなしにわざわざ群馬まで来るはずがないのも確かだ。
答えが出せずに考え込む二人を見て、ルリは大きくため息をつき。
「このバカチン!」
「うおっ!?」
「いてっ!?」
カバンで二人をひっぱたいた。なかなか痛い。
何をするんだと言わんばかりに睨みつけてくる修悟と混乱する廉を後目に、ルリは学校への道を歩き出す。
「まったく、女の子の誕生日も覚えてないなんて、デリカシーのない奴ら!」
「えっ…」
「あっ…!」
「知らないんだから、もう!」
ルリは怒っているんだか笑っているんだかよくわからない、しかし廉からするととても優しい声音で、わざとらしい大声で、叫ぶ。
「そんなおバカたちは、男同士でずっといっしょにバカやってればいいんだわ!」
そして三つ編みを散々に揺らしながら、駆けて行ってしまった。
その場に取り残された廉と修悟はしばらく誰もいない通りを眺めてぽかあんとしていたが、ふと互いの存在を意識して赤くなった。
そうだ、これは彼女が自分たちのためにしてくれた、お膳立てなのだから。
「廉」
「う、ん」
二人とも互いの顔がまともに見れない。視界には自分の足と、相手のつま先だけが入り込んでじっとしている。
もう今は、あのときのような誤魔化しはきかない。だって互いに互いの気持ちを、知りつくしているのだから。
でも待てよ、と修悟は思った。廉はどこまで会話を聞いていたのだろう。そもそもどこまでルリに吹き込まれているのだろうか?修悟が廉のことをずっと好きだったのも、知っているのだろうか?
それはともかく。今一番大切なのは、きちんと伝えることだ。
修悟は深呼吸して、顔を上げた。当たり前のように廉のつむじが視界に入ってきたのでイラッとして肩を掴んだら、廉は驚いて顔を上げる。
「俺、三橋が、好きだ」
「あ…」
「…っ、三橋――廉が、好きなんだ」
廉は呆けたような顔をして、視線をさ迷わせ、散々さ迷わせ、また俯いてから、ゆっくり顔を上げた。目に涙が浮かんでいた。
「お、おれ、も、」
「うん」
「叶、修悟が、すき、です――」
「れん…!」
ぎゅう、と力強く抱きしめられて、廉はちょっと苦しいなと思ったもののそれ以上に嬉しかったのでうひっと笑った。抱きしめ返して、幸せすぎて死んじゃったらどうしようとちょっと心配になった。
それから、廉にしては珍しく、思い出したことがあったので。
「だ、だからっ、」
付け足すように、廉は訴える。修悟は廉を抱きしめる腕を名残惜しそうにゆるめて、廉の顔を覗き込んだ。
「ケーキ、買いに、行こう」
「……だ、な」
今日はサボりかあ。あとで畠か織田に連絡しないと、と修悟は呑気に思い、廉の手を取って、歩き出した。
その夜。瑠里の部屋のカレンダーに、誕生日の花丸といっしょに、「告白記念日」と小さく書かれているのを発見した修悟が真っ赤になりながら暴れ、同じように真っ赤になった廉がぶっ倒れた、というのは…また別のお話。
終
4cmの小川ムム様に相互記念小説として捧げさせて頂きます。リクエストは言わずもがな、「カノミハ」でした〜。
しかしこれルリが活躍し過ぎていて肝心のカノミハ部分が薄いような…いやいや、これから散々いちゃついてくれると思います。たぶん…(オイ)。
ちょっとアレ?な部分を説明しますと、ルリはカノミハの恋をずっと応援してたんだけど中学でのことがあってからなかなか動き出せずにいたのでした。でももう仲直りしたし、いい機会だし!みたいな。
6月がお誕生日なので、三星戦が終わった後くらいと思って読んで頂けると幸いです。時季をまるで考えていないのは計画性が皆無だから…すみません。
よろしければもらってやって頂けると幸いです。どうぞ煮るなり焼くなりしてやって下さい。
相互リンクありがとうございました!
07,11,25
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