おやすみなさい






「大丈夫?」



篠岡が尋ねると、三橋はこくんと頷いた。あまり大丈夫そうには見えない。
肩で大きく息をして、ただでさえ大きな瞳をもっと大きくして苦しそうだ。頬を伝う汗が、彼がどれだけ努力しているかをよく教えてくれる。
今は休憩時間。汗と砂埃混じりの静けさが少しだけ満ちる、篠岡が彼と過せるとてもとても短い時間。
篠岡はコップにスポーツドリンクを入れて手渡す。必死に頑張るこの子を応援したいという思いが強いせいか、コップのふちギリギリまでたっぷりついでしまった。
誰かを贔屓するつもりはない。だってマネジだから。



(でも、三橋くん用だもん)



彼に対する想いが他と違うことを考えれば、十分理由となる気がした。ただ、こんな小さな事柄に気づく人なんていない。
三橋は語頭と語尾がか細くてよく聞こえない「ありがとう」をなんとか言い切って、篠岡の手からコップを受け取った。
軽く触れた、ゆびさき。



(わ、あ)



篠岡は離れてゆく三橋の指を、手を、じっと見つめた。触れたそれは、なんだかとてもあたたかい。
皮膚が硬く、土がこびりついた指。身体の他のところは皆細いのに、その指と、投球が生み出したタコのある手だけが、彼をきちんと男の子にしている。
それさえなければ、見た目と言い性格と言い、まるで女の子のようだ。
篠岡は空を見上げた。青の中にオレンジ色が混じり、そろそろ夕焼けが見えるだろう。グラウンドから見える赤と橙の供宴は、なかなか見事である。
三橋は眼前のスポーツドリンクを必死に飲んで、飲み干した。ゆっくり飲まないと周りの世話焼きたちにまた怒られるというのに、なぜか彼はいつもひとつひとつを頑張ってしまうのだ。そこがとても魅力的、で。



「あり、が、と…!」
「どういたしましてっ!」



元気良く微笑んで三橋から空のコップを受け取る。
また指が触れた。今度はただ硬いだけで、なんの感慨も感じなかった。篠岡は心の中で不思議に思った。
三橋はふらふらと立ち上がってマウンドを見る。丁寧に作られたそれは迫り来る夕暮れの光を受けて陰って見えた。
マウンドを見る三橋の瞳は、とろりと溶けそうで、それでいて戦いに赴く戦士のよう。
三橋が歩き出す瞬間が、篠岡にはわかった。
身体が揺れて、倒れそうになるのかと思うとその足はしっかりと地を踏みしめて、マウンドへ向かうのだ。



(あ、だめ)
「?」



篠岡の指が三橋のユニフォームの裾を掴んだ。ほんの少し引っ張られて、三橋が振り向く。
篠岡の瞳はただまっすぐ三橋に向けられていた。静かに、それが当たり前であるかのように。



「篠岡さ…?」
「三橋くん」



篠岡は微笑む。三橋は相手が女の子ということもあって顔を赤くすると、恥ずかしそうに俯いた。
篠岡は思う。こんな風にしていると、恋人同士のように傍から見えているのだろうか。ちゃんと。
そうじゃなくちゃ、悲しすぎるから。
こうも思う。この子は女の子のようだから、ひょっとしたら女友達同士にだって見えてしまうかもしれない。
ユニフォームを着ていて身長だってそれなりにはあるが、本当に可愛いから。
しかし彼に恋している自分からすると、その事実は懸念事項になりそうである。気をつけなくては。
篠岡は言葉を考えて、三橋に必ず伝わるために最適と思われる言葉を選んだ。



「無理しないでね」
「…!」



労いの言葉をかけると、三橋は目を大きく見開いて嬉しそうに何度も何度も頷いた。そんな動作のひとつひとつが愛しくて、何かが胸の内に溢れて止まらなくなりそうになる。
篠岡は名残惜しげに、ユニフォームから手を離す。



「三橋くん、頑張り屋さんだから。休むときはちゃんと休むんだよ?」
「う、ん!休む、よっ」



両手を胸元でぎゅっと握って。ほらそんなことしていると、本当に女の子みたい。



「三橋!休憩終わるぞ!」
「!は、い!」



少し離れたところからキャプテンの声がかかる。三橋は驚いて背筋を伸ばすと、篠岡に、とても恥ずかしそうに、ありがとう、と言った。篠岡が返事をする前に、阿部の怒号に走ってゆく。
篠岡はグラウンドに走ってゆく球児たちを見渡した。そうするのが彼女の楽しみ。
ファースト、ライト、セカンド、センター、ショート、レフト、サード、キャッチャー。
目をつぶる。
確かに視界には入っていた。しかし、彼を見るのは、あの子を見るのは、そのあとにしている。
目を開けて。



(ああ、ピッチャーがいる)



当たり前のことを確認してから、篠岡はおにぎり作りへ走り出した。











マウンドの上の彼はとてもかっこよく。
でもとても、かわいい。




だからひょっとしたら自分とこの子は、女友達同士にだって見えてしまうかもしれない。







そして、彼に恋している自分からすると懸念事項にもなりそうなその事実は、とても素敵なことにも思えるのだ。







だから。







(もうちょっと、休んで。)
(もうちょっと、そばにいて。)







それは、いつか言うとしても、今は、まだ。







07,10,20

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