生まれ変わった朝
うすぼんやりとした意識がふと意識下に降りて、ああ、目が覚めたのだと気付く。
次に意識に入ってきたのは天井の灰色――灰色?確か白の筈だけど――に、段々目が慣れて白になった。
――まだ、眠い…?
自分に問うてみると、身体は疲れているが頭はすっきりしている様子。どっちに従
うべきなのだろうと少しの間逡巡し、西広は上体を起こした。
ジャージを着替えて冷えた空気の中洗面所へ向かう。鏡の前に立つと初めて自分が自分であるとわかる。それは酷く奇妙なことなんだと思っていて、しかしどうしようもない。顔を洗ってダイニングへ。家の導線を、一番移動距離を短くして辿る。
テーブルの上にはラップのかかった朝ご飯。母は朝に弱い人で――自分も決して強くないけれど――西広の朝食を用意すると二度寝してしまうから其処は静かだった。カーテンがうっすら開いているがまだ暗い。
静かで色薄い場所にいると色々考えてしまうから、昔は一人が怖かった。嫌ではない。怖い。多分自分が自分であることを知りたくなかったのだと思う。
自分が嫌いだというわけではなかった。
ただ、“その程度の自分”に失望したくなくて。
――いけない、早くしないと。
時計が空気を刻む音が耳にまとわりついてきた。手を合わせいただきますをきちんと呟き、朝食を口に運ぶ。
ぱく。
おいしい。
ぱく。
それは、たぶん。
ごくん。
とても、素敵なことなのだと。
おいしそうに。とてもおいしそうに食べる姿は、良いものだから。
――三橋に限らず。
そう思い描いて、微笑んだ。残りを一気にかき込んで、ふう、と一息。似合わないなと思いこぼれる苦笑は、三橋が見たら勘違いしそうだ。
「ごちそうさま」
誰も聞かない言葉が辺りに響いて消えたのを感じてから立ち上がり、部屋へ戻ってカバンを持って玄関へ。いつも朝はこんなものだ。
靴を履こうとした、瞬間。
「あれぇ…」
後ろから微かに聞こえた声に西広は振り向く。目の前に、起き出してきたらしい母親の姿があった。西広は目を瞬かせた。
「あれ、早いね」
「うーん、まだ行ってなかったのね」
「遅くなっちゃってたかな…」
腕時計は普段より五分遅い時刻を示している。間に合わないわけではないが、急い
だ方がいいだろう。
よろけながら立ち上がり、一歩踏み出す。
「辰太郎」
「なに?」
母は、西広のどこか遠く後方に、何かを見つめて微笑んだ。自分はきっと彼女によく似た笑い方をするのだと思うと、不思議だった。
「ううん、何でもない」
「何でもないわけないよ。なに?」
「だから、何でもないの。何でもないのよ?」
ただ。
そう彼女は前置きして。
「幸せそうねって、思ったの」
「しあわせ…」
「毎朝早くにどんな幸せに出会ってるのか――そう思うと、なんだか幸せになれるわ」
――それは俺も。
自分が今幸福であるということを、再確認するたびに。
――西広、くん。
きっと、自分の「幸せ」は、母にも幸せだと思ってもらえるとわかる、そのたびに。
昔の自分は嫌いじゃなかった。向き合った本当の自分に失望したくないだけだった。
そして、自分を、嫌いになりたくなかった。
――でも、あの子は――自分を嫌いになってまで、前に進むことを辞めなかった。
「お母さん」
「はい」
きちんと声をかけるときちんと返してくれるこの母が、西広はとても好きだ。
ドアノブに手を掛けて。
「行ってきます」
さあ今日も、前に進む、朝の始まり。
08,4,7
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