今晩私の為にあけてくれますか






暗闇の中の他人の息遣いはこんなに胸に響くものだっただろうか。
今までと照らし合わせてみて、照合する対象がいないことにふと気づいた。自分は女慣れしているように周りから見られていて、けれど実際は初めてのことだらけのガキだ。
そしてずっと恥ずかしいことでしかなかったその「遍歴」は、目の前の蜂蜜色に出会って変化する。
前髪に触れると思ったよりもずっと通りがよかった。指の間を縫うように蜂蜜の生糸が滑り、逃げていく。



「はぁっ」



息を吐くと背景の黒に白い靄が重なった。靄は世界に何の名残があるのか白の体を重そうに横たえたものの、すぐに闇に溶け込んだ。
蜂蜜色の後ろで、昼間の雨で濡れたアスファルトが街灯に照らされて黒曜石のごとく光った。昼間なら青空や雲を反射したのかもしれない。
そのまま視線を横に滑らせると家が立ち並んでいるのが目に入る。ぼんやりした灯りがどこか震えながら灯っている。
腕の中の蜂蜜色が身震いしたのが、前髪を梳いている手に伝わった。



「はるな、さん…?」



か細い声が聞こえた。寒いんだろう、少し震えを混ぜて。
よく考えればもう雪が降ってもいいくらいの季節だった。互いの格好はコートだし、息は白い。



(寒い、な)



榛名はそう思って、蜂蜜色の髪をくしゃくしゃかき混ぜた。うお、とかうひ、とか聞こえたが、ぼうっと遠くに視線を置いて。
辺りは黒の侵食が色濃く、木々も家々も自身から滲み出たように黒い。此処は街灯の下だから当たり前のように明るいが、灯りが届く範囲が弧を描いて切り取られた向こう側はすぐに闇に落ちる。
頭上でかしゃりと音が鳴る。虫達が街灯にぶつかる音だ。少しそれを見上げて、真上ではなかったので無視した。
視線は、また闇に戻った。



(ああ、もう無いか)



目を向けるべきものが無くなってしまった。目の前の、恋人以外。
榛名は目の前の蜂蜜色の少年を見た。その瞳はやはり蜂蜜で、不思議そうな色をたたえて榛名を見上げる。少年の口端から白い息が漏れた。



「はる、なさ…」
「寒いか?」



問うと、首が横に振られた。表情から戸惑いは消えない。けれど怖がっているようには見えない。信頼、されているんだろうか?そう思うと罪悪感が夜闇のようにじわりと湧き上がった。
これが本当に本物の蜂蜜のアメだったならどんなに甘いことだろうと考える。それなら一口で済んでなんの心配もいらないだろうに。



「三橋」



遠くから反響したようにクラクション音が耳に届いた。それを中断せよとの忠告と見るかそのまま行けとの命令と見るかは自分次第。
三橋は榛名を見上げて小さな口を開いている。本当は心配しているんだろう。脅えてもいるんだろう。



「今夜、暇か?」



三橋はまばたきをして、少しだけ首を傾げた。



「だから、おれ、ここにいる、です、よ?」
「そうか。成る程な」



蜂蜜色の髪からそっと手を離す。それだけで指先が外気の冷たさを思い出したように凍えた。



「でも、もう一回」
「もう…?」
「ああ。もう一回」



吸い込んだ空気は凛としていて、睨みをきかせられているようにも感じられた。
それでも自分がどうするか、というのは外界の何かではなく自分なのだとよく知っているから。



「三橋、今夜、空いてるか?」
「…――」






少しの間のあと、はい、と小さく、力強い声が耳に届いて、榛名は目の前の蜂蜜色を腕の中に封じ込めた。







07,10,4

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