アベミハ
数学が得意だ、と言うと、阿部らしいと笑われる。
苛々しながら理由を問えば、返ってくるのは「だって阿部だし」。意味がわからない。
それでもなんとか引き下がって聞き出したところによると、脳内思考が理数系のきらいがあるとのことだった。確かにキャッチャーをやるようになって必然的に駆け引きや計算をするようになったし、それが日常に及ぶこともときたまある。だがイコール数学に結びつけられるものでは到底ない。阿部からすれば数学なんていうのは全て1+1=2の延長に存在しているものであり、系統立ててゆけばどこかで必ず答えにたどり着く。
数学好きなど所詮はイメージの産物。いや全く迷惑な話だ。
だ、が。
「……」
「うっ…、ひっ……く、」
練習後の部室。汗と土の混ざったお世辞にもいい匂いとは言えない臭いに満ち、切れかけた蛍光灯が唸りを上げる。
沖ミハ
沖は何度目ともわからないため息をついた。何に対してついたのか自分でもよくわからない。わからないが、その要因のひとつに今日の試合のことが関係しているのは明らかだった。
今日は西浦高校での他校との練習試合。空は前日の曇天が嘘のように晴れ渡り、もうすぐ真っ青へと変わり出すだろう。ただ、まだ時間が早いので、空では朝焼けのオレンジと薄い水色がゆるやかに溶けている。中途半端だけれど、とても綺麗な色だ。
もう一度、息を吐く。誰も聞いていないから許されるだろうが、もしかの女監督などが耳にしたならば自力金剛輪をくらいそうだ。しっかりしなさい、と。
――別に、こわい、とか、嫌、とかじゃないんだけどなあ。
沖はベンチに腰を下ろした。手をベンチに置くと、特有の硬さと冷たさが皮膚を伝って染みてくる。
サカミハ
「あり、がとっ、うっ!」
「どういたしまして」
いつもの笑顔でいつもの通りに返すと、三橋はとても嬉しそうにふひっと笑った。笑顔が感染するってこういうことなのだろうなと思う。
そんなとき自分はいつも幸せだから、大抵その気分に酔いしれていられるのだけれども。
「栄口くん、いいひとだっ!」
――あー。
言われるその瞬間は、やっぱりどうも歯がゆいのである。
三橋は栄口をいい人だと言う。だがそれまで自分は特にいい人呼ばわりされたことはなかった。確かに母親が居らず兄弟と助け合って生活している分、多少面倒見がいいとか我慢強いとかはあると自負している。しかしそれは突出してのことではないし、聖人視されるようなものでもない。
自分が「いい人」とやらになってしまったのは、多分三橋に肉まんをあげたあの朝から。それからどことなく、「三橋にとってのいい人」を演じようとしている気がしなくもないのだ。
タジミハ
「みはしー!!」
「あ、たじま、く…ぐえっ!?」
背中から思いきり飛びつくと、三橋はヘンな声を出した。カエルがつぶれたみたいなその声に(カエルがつぶれた声って聞いたことなかったけれど)、田島はニシシと笑う。
「次自習だってよー。三橋、どうするっ!?」
瞳をキラキラさせて言う田島につられるようにして三橋の目も輝く。
自習のときは大抵、寝るか食べるかしゃべるかだ。西浦は公立だから教師も厳しいようでいて私立の比ではない。校則にもその緩さが現れている。そのため貴重な自習時間ともなると生徒はこぞって勉強とは無関係に動き出す。
田島は自習時間が好きだ。好き勝手できるというのもあるけれど、あの、自習だとわかって気分が最高潮に盛り上がる瞬間が好きなのだ。
「じ、自習っ、かっ!」
「おうっ!自習っ、だっ!」
スミハ
手が伸びる。手が伸びていたことに気づく。引っ込める。
そしてささやかなため息。
最近こんな動作を繰り返している自覚が十分すぎるくらいにある巣山は、引っ込めた手を握りしめ、走ってゆく後ろ姿に黙って続いた。
背中に大きく赤い「1」を負って見えるその身体はとても小さいけれど、巣山からするとその存在の大きさゆえか異常なまでの存在感で持ってそこにいる。
と同時に、難攻不落の城塞のような堅固さでもって立ちはだかるのだ。
――やっぱりだめか…。
今日も。今日も、触れられなかった。
…というとなんだか妙な言い方だが、正しく言うなら肩を叩けなかったのだ。
他の部員は結構簡単に三橋に触れる。内野外野問わず、攻撃守備が交代するときは肩を叩いて投手を賞賛し鼓舞するのは当たり前の光景のはずだ。巣山は根っからの野球少年だからそれはよくわかっている。
ミズミハ
水谷ってアレだよね、と同じクラスの女の子に言われた。
アレって何よ、アレって?といつものように茶化すような口調で返すと、女の子はそばにいた別の子と顔を見合せ笑った。
そして一言。
「なんていうかさ、野球部っぽくないよね!」
…なんですと。
そんなことがあってからときどき考える。じゃあ野球部っぽいやつってどんなんなんだ!って。
確かに自分はそんなに筋肉がある方じゃないし、そんなに俊敏でもないし、運動部特有の汗!とか涙!とかが大好きなわけでもない。
かといって純粋に野球好きかと思えば、他の奴らと比べると同じか劣っているようにすら感じてしまう。野球好きに上も下もないとは思うけれど、野球がないと死んでしまうとまでいかないし。
イズミハ
廊下を進むとみんなが避けた。それは先を急ぐ泉にとっては非常にありがたいことだったので、気にせずどんどん進む。身体の小さな彼が大きく見えるほどの勢いで、泉は道を開ける人ごみの真っただ中を歩いていた。もし彼が右手に掴んでいる存在がいなかったら、走っていたんじゃないだろうかと思うほどに。
その存在は周りが自分たちを見つめているのに気付いていたから、「ヒィ」とか「あわわ」とかちょこちょこ悲鳴ともうめき声ともつかない声を発していた。けれども誰も何もできないし、周りは状況を飲み込めていなかったのでどうしょうもない。
「よそ見すんなよ。転ぶ」
「うっ…う、ん」
短く言われて同じように短く三橋は返した。どうして振り返ってもいないのにわかったんだろうと思い、でも泉くんならわかってしまうんだろうと思い直して。
泉は三橋の手をしっかり握りしめ、廊下を歩いていた。
ハナミハ
三橋が消えた。
それはない。そう思って顔を引き攣らせたのは束の間で、すぐにその姿が現れる。
単にこけて、身体が茂みに隠れただけだったらしい。
はああ、と切れ切れのため息を吐き出す。そして、どうして三橋の一挙一動にここまで焦っているのだろうかとはっとなる。はっとなって、またため息。
最近どうもこんな調子が続いている。気がつくと三橋を目で追っていて、気がつくと三橋のことを考えていて。
自分はキャプテンだから部員を気にかけるのは当然のことだが、さすがに行き過ぎているんじゃないかと心配になった。そこで試しにできるだけ三橋のことを考えず、練習中も三橋を見ないようにしていたこともあったのだが、そもそも練習仲間を見ないように過ごすというのが無理な話だった。
――おかしい。これはおかしすぎる。
西ミハ
がんばれ。
マウンドまでの距離は遠い。きっと届かないに違いない。
けれど叫ぶ。
ありったけの声を出して、喉がどうなってもいいって思いながら。
がんばれ、三橋。
息が上がり、肩が小さく上下しているのがわかる。ずっと一人で投げて、辛くないはずがない。
それでも三橋は真っ直ぐ前を見つめる。決して、助けを求めて此方を見たりしない。
凄い。遠い。辛い。
西広は、ベンチから乗り出して、声を張り上げた。
がんばれ三橋!
――声は、届いたんだろうか。
総受け
「なー阿部ー」
「ああ?」
阿部は読んでいた野球雑誌から顔を上げた。さっき水谷から取り上げ――もとい、借りたものである。(貸した本人は絶句していたが)
ここは一年七組だ。昼休み現在、人は多いようで少ない。数人が一つの机に集まって弁当を食べているせいで空間が空いて見えるし、天気がいいので多くのクラスメイトが外に行っているようだ。
廊下側一番後ろの席の阿部に声をかけたのは田島だった。クラスには入らずドアから身を乗り出している。
七組と九組ではそんなに離れていないが、昼に来るのは珍しい。
そして昼に来るということは。
「弁当なら食っちまって残ってねーよ」
「ちげーよ。三橋知らね?」
「…はあ?」
田島の言葉に眉間に皺を寄せる。
田島は七組の中をきょろきょろ見渡し、三橋の姿がないのを見て取るとうーんと首を傾げた。