<なぎ>
朝独特の心地良い空気.未だ残る眠気を振り払うように,綱吉はうーんと伸びをした.
諸々の珍事が立て続けに起きて,今朝は一人で学校へ向かう.
…誰かに会いそうだなぁ.
それは,ただの予感.
通学カバンをぶら下げながら,人っ子一人居ない道路を進む.
角を,曲がった.
ばったりと,出くわしたのは.
「ボス…」
繊細な声音が,形のよい唇から紡がれる.思わぬ遭遇に,けれど何となく予想していた綱吉は,今
時分最適であろう挨拶を告げる.
「あ,おはよう…えと…クローム」
「おはよう,ございます」
ぺこり,と隻眼の少女は頭を下げた.ぎゅ,と握り締められたバッグには,きっとあの三叉鎗が入
っているんだろうな,と思考の片隅で思う.
通りには彼ら以外誰も居らず,更に進行方向は二人同じな様だった.お互いにしょうがない,と
でも言いたげな空気を孕みながら,どちらからともなく歩き出す.
「…」
自分より,背の低い彼女を横目で見遣った.
眼帯と髪型を除けば,どこにでも居そうな,女の子.
(うん…そうなんだよね)
綱吉は,知っている.
彼女が,平凡なただの少女であった過去を.
「あの…さ」
言いたかった,ことがあった.
言いたかった,というには語弊があるかも,知れないけれど.
きょとん,とこちらを見詰める少女に.
「クローム,じゃなくて」
「…」
「凪,って.呼んでもいいかな」
…刹那.
少女の瞳が,揺らいだ.
「…,」
淡い色の,唇が微かに動く.
「…棄てたから」
「え?」
「その,名前は」
深い色の,瞳.
ひとつだけの,それは.
綱吉の心を,酷く,揺さぶって.
哀しそうな,色が.
切なそうな,色が.
「棄てたの」
昔の自分.は.
「もう要らないから」
何もできない自分は.
彼の役に立てない自分は.
…貴方の役に,立てない自分は.
「――」
いつの間にか,二人の歩みは止まっていて.
ふわり,とそよいだ風が,頬を撫でていく.
「…オレは,知ってるよ」
小さな命を助ける為に,君がいろんなものを失ったことを.
それは.…その気持ちは.
「要らなくなんか,ないよ」
「…要らない」
「なくない」
「要らないの.骸様もそんな私なんか要らない」
淡々としていた声が.少しだけ感情を含ませた.
柳眉が,寄せられる.
綺麗な瞳に,力が込められて.
「要らなく,ないよ」
繰り返す.
「オレはちゃんと,聞こえてたよ」
――上出来ですよ,凪――
「ちゃんと,」
慈しむような,彼の声.
あんな声は,初めて聞いた.
「要るよ,…凪」
君は,ちゃんと.
昔の君として.
凪として,彼に必要とされている事を.
言いたかった,と言うのは,正しくないかも知れない.
ただ.
「……」
戸惑った表情で,彼女は綱吉を見て.
「ボス…は,」
「?」
「時々,だけど.…ボスは,骸様みたいに,見える」
少女は,困ったような顔のまま.
「…ぷ,…オレ,が?」
思わぬ言葉に,吹き出してしまって.慌ててそれを誤魔化しながら問う.
こくりと頷く彼女に,どうしたものかと空を見上げる.
「…だけど,」
綺麗に通る声が続けて.
綱吉は彼女に視線を戻した.
「ボスは,ボス,だから」
骸様とは,違う空気.
とても,大きくて心地良くて.
大空の,ように.
「…ありがと」
笑って,告げる.
「…っ」
何故か,慌てるように顔を背けた少女に首を傾げながら.あ,と思い出す.
「…凪,って」
彼が君を,そう呼ぶなら.
「呼んでもいいかな」
遠くな筈の彼の気配を,微かに感じながら.
そう尋ねる.
まだ,向こうを向いたままの顔が,縦に揺れた.
綱吉は嬉しそうに笑って.
「凪,」
君がここに居てくれて.
君が存在していてくれて.
「ありがとう」
要らなくないよ.
少なくとも.
君を想う,オレと彼にとって.
終