それは.
遠い,遠い,遠い――記憶.
<夢幻>
年は二十の半ばを越えた程.穏やかな瞳は琥珀色で,戦いの時,その美しい眼は金色
に輝いて.
ふわり,と風を孕むやわらかな髪.
彼が大空を背に立つ姿はまるで絵画.解き放たれた鳥の様に,大地に根差す大木の
様に.美しく壮大な姿を見るのが,僕は堪らなく好きだった.
「――」
遠くを眺めていた彼が振り向いて.絵画が現実になる.
「イル,」
呼ぶ,声.
それは,路頭に彷徨う身を拾われた時彼に与えられた名.
――そうだね.まるでお前は幻のようだから.…illusione,イルにしよう.いいかな
?
あの日の彼を,彼に重ねて,応える.
「はい」
立ち上がると,彼の手が,僕の方へ差し出された.
「帰ろうか」
彼の年頃にすればきっと小さいのだろう.けれど僕よりも大きく,そして何よりも
大きなその手を,握る.あたたかな,体温.
「最近は暗くなるのも早いね」
そう言って,空を見上げる.透き通った青は大部分が茜に飲み込まれていた.
「ボンゴレ,」
彼を呼ぶ.僕は,これ以外の呼び方を知らなかった.
「早く帰らないと,幹部の人達が」
「いいんだ」
遮る様に首を振る.
彼は組織の頂点であり,全て.彼が失われれば,全ては意味を亡くす.ボンゴレと言
う組織にとっても,僕にとっても,それは同じことだ.
そう,この時僕は,彼だけが全てだった.
「イルが一緒だからね」
「…」
その言葉には,何の意味があるのだろう.解らなかったけれど,笑い掛けてくれるそ
の顔が,堪らなく心地よくて.彼を見上げて,僕も笑う.
…彼の傍は居心地が良い.
何度も繰り返した生の中で,初めてぬくもりをくれた彼は,何より大切な人.
ぎゅ,と手を握る.彼が応える様に握り返してくれたのが嬉しくて,僕は大股に歩く.
「早いよ,」
くすくすと笑う声.僕に向けられるそれはいつだってやわらかで優しくて.
「ボンゴレ,大好きです!」
世界の全部に聞こえるように.全ての人に,伝わるように.大きな声で.
言ってから,歩きながら振り返る.斜陽に染められた顔がにっこりと,微笑んだ.
僕はその顔がとても好きだ.
「オレも好きだよ」
赤い赤い陽が,暮れていく.
「…こんな時間までどこ行ってたの.いい加減自覚しなよ自分の立場」
屋敷の扉を開けてすぐ,幹部の一人が出迎えた.すらりとした痩身,墨を流した様な
黒髪と真っ黒のスーツ.切れ長の瞳が,ボンゴレを見る時だけ穏やかになることを,
僕は知っている.
「ごめんごめん.空がすごく綺麗だったから.…な,イル?」
琥珀色の眼が僕を見下ろした.はい,と頷くと,黒い彼は一度つまらなそうに僕の方
を見て,すぐにボンゴレへと視線を戻す.
「いつまで居させる気.その子供」
「うーん…いつまでとかは考えてないなぁ」
「……好きにすれば」
「好きにするよ」
くすり,と笑う彼.
大きく溜め息を吐いた彼は,一度何か言いたげに唇を開き,結局何も言わぬまま踵
を返して立ち去った.
「…イル」
呟く様に言って,ボンゴレが僕と目線を合わせる為に屈み込む.
「はい」
「ここに居たい?」
優しい問い掛け.まっすぐ見詰めてくる眼を,見返して.
「居たいです」
僕は思ったままを答える.考えるまでも無く,僕は彼が全てだから.ボンゴレが微笑
む.
「なら,ずっと居るといいよ」
頭を撫でられる.幸福だな,と思った.
「行こうか」
彼は身を起こし,また僕の手を握って歩き出した.何人もの彼の部下達に頭を下げ
られながら,階段を昇っていく.
昇りきって,
「初代!」
通路の向こう側から青年が現れた.銀色の髪が照明を受けて輝いている.
「お帰りなさいませ.お食事の用意ができてますが…」
「ただいま.うん,今行くよ」
彼は止まっていた歩を再開させて,あ,と振り返る.
「せっかくだし一緒に食べようよ」
「は……いえそんな,」
「いいから,ほら行こう」
言って,開いている方の手で銀色の彼を捕まえる.
「わ,え…,初代!?」
間にボンゴレを挟んだ三個隊で突き進む僕たちを,すれ違ったファミリー達は慇懃
に挨拶しつつも興味深そうに眺めている.ボンゴレはそんな彼らに微笑むと,
「暇だったらお前達もおいで.今日はパーティーにしよう!」
…かくして,僕らの三個隊は大所帯となった.僕は背後の人数を数えかけ,馬鹿らし
くなって中止する.
「…」
賑やかなのは嫌いでは無い.それにその中心が彼ならば,厭うものではない.けれど.
僕は楽しげに進む彼の姿を見ながら,違和に首を傾げた.
「おー.おかえり」
ドンの突発企画は速やかに全ファミリーへと伝えられ,その大所帯に対応すべく,
急遽夕食の場は大広間へと変更された.
一同がそこへ辿り着いた時,既に先客が一名テーブルに陣取って居た.
跳ねた黒髪の大柄な青年.彼のだらしない着こなしは,少なくとも僕が拾われて今
まで,全く改善されていない.
「ただいま」
「テメー!初代の前に食事に手ぇ付けるたぁいい度胸してんじゃねーか!!」
いきりたつ銀の彼に,先客は手にした骨付き肉を振りながら,
「悪ぃ悪ぃ.腹減って死にそうでさー」
「ふざけんじゃねー!!」
「まぁまぁ,いいって.オレ達も食べよう」
彼らを宥めながら,ボンゴレは席に着いた.僕は彼の隣に座る.
「まだお前には早いかも知れないけど.弱いから多分大丈夫だよ」
ボンゴレが言いながら僕の目の前のグラスにワインを注ぐ.微かに黄色みがかった
液体がくるり,と硝子を撫でて跳ねた.グラスの四分の一にも満たない量で止めら
れたそれを,手渡される.ふわり,とアルコールの香り.
「みんな持った?…それじゃ,」
ざわざわと波立つ周囲をぐるりと見渡して,ボンゴレは立ち上がる.グラスを掲げ,
ひとつ咳払い.一瞬で,広間に静寂が落ちる.
「ボンゴレファミリーの栄華を称えて.更なる繁栄を祈って.乾杯!」
『乾杯!!』
不揃いな声音に,けれど満足そうに笑んでボンゴレはワインを一口呷った.真似る
様に,僕もグラスに口付ける.
以前ほんの少し舐めた味.これは確か,ボンゴレお気に入りのワインだ.
「さぁ,食べよう」
腰を下ろしたボンゴレに笑い掛けられて,頷く.
眼前にある料理は色とりどりで,どこから手を付けるべきなのか迷う程だ.手近な
パスタを口に運びながら,ボンゴレを見た.
一部の部下が始めた馬鹿騒ぎに,愉快そうに笑っている.あちこちに目を遣りなが
ら楽しげに談笑する彼は,いつも通りだった.
気のせい,かな.と思う.けれど,一瞬.
「,…」
笑みの中の亀裂.微かに伏しがちになった視線は,次に瞬いた後には満面の笑顔に
なっていて.
誰も気付いていない.
賑やかな空気は一層高まって,その一瞬は跡形も無く消え去っていった.
「――」
闇.
起き上がると,いくつかの寝息と鼾が聞こえてきた.僕に寝室として与えられたの
は,ファミリー内でも中下層な面々との相部屋.それさえも,拾われただけの身であ
る僕には破格な待遇だった.
彼には感謝してもし足りない.僕にできる事はほとんど無いけれど.
枕を掴むと,僕はベッドから抜け出した.
こんこん.
控え目に,戸を叩く.
沈黙.
重厚な板は中の様子を一切遮断する.しばらく経ってから,扉が開かれた.
「……イル?どうしたの?」
夜着を身に纏ったボンゴレが現れる.僕は枕を抱き締めて,乞う様に彼を見上げた.
「一緒に,寝てもいいですか?」
彼は一度瞬いて,すぐに笑顔になった.
「いいよ.おいで」
室内に招かれる.
天蓋の付いた立派なベッドに潜り込みながら,ボンゴレが問うた.
「怖い夢でも見た?」
少しだけ,笑って.
僕は首を振る.
「ボンゴレ,」
何と説明したらいいか解らなくて,言葉を探しながら紡ぐ.
「ボンゴレが今日,…いつもと,違う気がして」
「――」
彼の口が閉ざされる.
いつに無い長い沈黙に,口にした事を悔い始めた時.蜜色の眼が,細められた.
「…お前には隠し事出来ないなぁ」
笑ってから,僕を抱き締める.ボンゴレの匂いがした.
「ちょっと,ね」
何が,とは彼は言わなかった.僕も訊かなかった.
僕を包む腕が,震えているなんて事は無かったけれど,
「…ありがとう,イル」
いつもと変わらない声が綴る言葉が,受け止めるには重すぎて.思わずぎゅう,と抱
き付いた.
…僕は何も出来ず.
貴方の闇を受け止める事も出来ず.
貴方に与えられた恩恵に報いる事も,出来ないけれど.
ここに在ることで,ほんの僅かでも役に立てるのなら,いつまででも居たい.
彼の体温の心地良さに,まどろみ始めた意識で.
強く強く,そう願った.
***
「…,」
眼を開ける.
まだ夜は明けておらず,辺りは暗かった.透明な静寂が室内を満たしている.
「ん…,…」
腕の中で,華奢な身体が身じろいだ.僕の目の前で小さく動いた瞼はしかし結局開
くことが無く,彼はまた夢の深みへと墜ちていったようだ.
「クフ…」
思わず,笑う.
鮮やかに蘇った記憶と,彼を比べてしまって.
彼は彼であって彼では無く.
僕は僕であって僕では無く.
輪廻と言う環は,時に螺旋を描く.比較は詮無い事であり滑稽であるのに.
「綱吉くん」
愛しい名を,呼んだ.
敬愛する彼と,酷く似通った容姿,空気.けれど確かに異なるのは,僕が抱く感情の
種類.
それはとても区別が難しく,しかし決定的に落差のある,差異,
「愛してます,よ…」
やわらかなぬくもりを抱き締めて,再度押し寄せた睡魔に逆らわず呑まれる.
願う事は,同じ.
いつまでも,君の,傍に.
終