カリ、と白い紙の上をシャーペンが走った。ホントはカリ、の次にまた"カリ"が 続いたら軽快なんだろうけど、シャーペンは頼りない縦線を書いたのみに止まる。 しーん、と沈黙。 「……ぅ」 耳を必死にかたむけていないと聞こえないような小さなうめき声がした。なんで 俺に聞こえたかと言えば、そりゃ涼しい顔しながら必死に耳をかたむけていたわ けで。 目の前のふわふわした茶色の髪が揺れて、ゆっくり持ち上がる。こちらを怖々覗 く大きな瞳。 「水谷…くん」 「何?」 別に普通のトーンで返したつもりの声は、弱気プラス卑屈なウチのエースにはそ う聞こえなかったらしい。目に見えてびくりと肩を震わせて、キョドキョドと目 を泳がせる。慣れてることとはいえ、ちょっと傷付くってもんだ。ここで引き合 いに出して悪いけど、阿部じゃないんだからさあ!って言いたくなる。 もうそれなりの付き合いになるんだから、それ止めてくんないかなー? でも言ったら余計に挙動不審になる気がするので今回も止めておく。せっかく三 橋が俺の名前呼んでくれたわけだし、そこらへんは甘んじておこう。 「なに、どれかわかんない問題あったの?」 身をのりだして三橋の手元を覗きこむ。実際にはじっと見ていたし、途切れ途切 れのシャーペンの音でわからない問題があるのははっきりしていた。でもこう聞 いてあげたほうがいい気がして、俺は会話に一拍置くことにしている。いきなり 本題に入るのも、まー悪かないさ。ツーカーっぽいよそりゃ。だけど三橋が相手 なんだから、こっちのほうがずっと親切なんじゃないかと思うんだ。 三橋はこくんと頷いて、プリントの真ん中らへんを指差した。俺はどれどれ、と プリントを横向きにする。向かい合った俺と三橋が一緒に見えるように。 聞かれた問題は簡単なやつだった。たぶん一分もあれば解ける。一分も…いや、 一応二分にしておこう。でもなんにしろかんたんカンタン。 「えっとな、これは三角関数の公式に当てはめちゃえばすぐ出るよ」 「公式…こ、れ?」 「お、ん、そうそう」 プリントの領域からも領空からも俺が消えると、三橋は横向きだったプリントを 引き寄せて式を書き始めた。俺なら二分で終わるけど、三橋なら倍はかかる。別 に字が丁寧ってわけでもないのに、不思議な話だ。 「……」 ちょっと惜しかったかな。三橋の一生懸命な姿を見ながら思う。 二人で一枚の紙を覗きこんで。頭を、顔をつき合わせて。三橋の、光によって透 明みたいに見える髪の毛とか、ぱっちり大きな瞳とか、ぱくぱく動く口とか、柔 そうな唇とか、が、すごく近くで見える。 みずたに、くん。 そう舌っ足らずな甘い声を出す唇が、とても近くに見えたのだ。 水谷くん。 ――…。 「……みはし」 かなり抑えた声で呟いたのに、三橋は手を止めてパッ!とこちらを見上げた。今 度は脅えてないみたいだ、よしよし。 「ちょっと、貸して」 プリントを指差すと、三橋は素直に俺にプリントを差し出した。この素直さが素 晴らしい。のと同時にちょっと心配になる。チャンス=ピンチ、ってヤツだ。 三橋からプリントを受けとって、下の方にカリカリカリ、とローマ字を書く。書 いてから裏に書けばよかったと後悔したけど、まあしょうがない。消せばわかん ないだろう。 「――はい、よく見て」 さっきと同じように横向きにプリントを置く。三橋の目はどこを見ればいいのか 一瞬迷って、一番下に辿り着いた。 俺は小さく深呼吸。 「じゃーね、一番下に何て書いてあるか、読める?」 「えと…」 三橋は事態をよく飲み込めないものの俺の言うことを実行しようとしてくれてる。 ありがたいんだけど、騙してるみたいで申し訳なくなってくる。あ、いや、実際 騙してるんだけど。 「HU、MIKI…?」 「もう一回、ヨロシク」 「ふみき…?」 がっくん。俺は机に突っ伏した。 バカじゃないの!?何させてんだよウチのエースにっ!