マリアまでの10step
テン・ステップ
英語の時間だった。何故高校生にもなって文章の単語レベルが低いのかはわからないがそれはともかく、教科書には一人の女性が写っていた。
優しげな表情の中に輝く瞳は凛としていてなかなかに侮れない雰囲気を醸し出している。まあ聖人なんていうのはきっとそういう人々だと思いながら教科書に目を通す。と、彼女の素晴らしい功績の中、なるほどそれは正しいという文言を見つけた。
愛の反対は憎しみではなく、無関心なのだと。
春市はよく沢村栄純の話をする。彼がその少年の名を口にするのは大抵話題に困ったときだ。
離れて暮らした二年は少なからず二人の話から共通点を奪ったし、そうでなくても亮介は春市に妥協を許さぬ態度だ。多少萎縮しているのだろうと亮介は気付いている。
ではなぜ沢村栄純なのかと言えば、特に仲がいい一年だから当たり前なのだろう。
そして栄純は話題に事欠かない希有な存在であった。入部してすぐに謹慎処分を受けしかし監督に認められて這い上がり、練習試合の功績から一軍入り。クリスを救済したという不可思議な彼は今までの試合でも異才を放つ。
珍しい春市とのバッティング練習を終え帰る道々、遠くにタイヤ引きをする姿を見つけた春市は前髪に隠された瞳を輝かせた。次いで「そう言えば栄純くんが」と切り出された話に亮介は内心苦笑する。まあ終始無言で歩くのは兄弟として妙かもしれないが、そうまでして会話しなくてもいいだろうに。
「今日移動教室から戻ってきたら栄純くんが俺のクラスの前でオロオロしてたんだ」
「へぇ?」
「どうしたのって聞いたら、次の時間英語なのに辞書が無くて、って」
「ふうん」
何の変哲もない日常会話かと思っていると、栄純に向けられたままの春市の瞳が優しく緩む。
「でもね、栄純くんは寮暮らしだからおかしいよね?部屋まで走ればいいんだし」
「あぁ…それはそうだね」
「だから後で金丸くんに聞いたら、隣りの席の子のために借りにきたんだ、って言うんだよ」
いい子だよねぇ。しみじみ言う春市に、そうだね、と短く返答する。むしろそれを言うお前がいい子だよ、という言葉は口には出さずに。
春市の視線を追ってみると、グラウンドでタイヤを引いている栄純は必死で、こちらには気付いていないらしかった。同じところをぐるぐる回る様は見た目以上にキツいのだと亮介自身知っていたので、当たり前は当たり前だが。
こちらを見ないかなと漠然と思った。何故かはわからないが、あんなに大変そうでもあの少年は笑顔で振り返りそうだからだ。
春市は一生懸命なところを見習わなくちゃ、と目を細めて栄純を見つめていたが、兄に視線を移して不思議に思った。彼もまたじっと栄純を見つめていた。
春市の中で兄は後輩に対しての興味が薄い人のように感じていたから、それは純粋な驚きだった。なんとなく声をかけづらく、またそろそろ視線を戻す。やっぱり栄純はタイヤを引いていた。
そしてまたちら、と横目で見た亮介に、やはりおかしいと首を傾げる。目を細めていた――というのは春市だからこそわかったことで、傍目から見れば普段の彼と何ら変わらない――亮介に、春市は不思議そうな声音で呼びかけた。
「兄貴?」
「…ん?」
「どうかし――」
「あっ」
亮介ははっとして固まり、春市ははっとして視線を追った。
視界の隅で聞こえた「あっ」というのは渦中の人の声。タイヤ引きをいつの間にか終えたらしく、紐を解いてこちらに向かっている。
「春っちー!お兄さーん!」
手をぶんぶん振って駆けてくる栄純に、春市は控え目に手を振り返す。
そしてちらりと横に視線を向けると、
「……ぇ?」
隣りで栄純を見つめる兄の表情が、いつもの笑顔ではなかった。仏頂面とでも言えばいいのか、表情が固まっている。
亮介が笑顔でいる理由は色々とあるのだろうが、野球に関すること以外でそれが淀むのを見るのは久しぶりだ。
彼はじっとやってくる栄純を見つめ、静かに息を吐いた。春市が瞬きをした瞬間彼はいつも通りの笑顔に戻る。春市はますます驚いて目を白黒させた。
「え、兄貴っ?」
「なに、どうかしたの」
けろっと返されてこちらが返答に困った。
「えー…と…?」
そうこうしている内に栄純が土手を上って二人の所までやってきた。散々練習した後だというのに元気そうで、昼間と同じきらきらの笑顔を見せている。礼儀正しくこんばんは、と亮介に頭を下げてから春市に向き直る。
「二人も練習っ?」
「へ?あ、そうだよ、バッティングの」
「へー!俺もそういうのした方がいいのかなー」
確かに栄純のバッティングは同じポジションの降谷と比べ劣るため、問題点の一つではある。バントだけは何故か異様に上手いのだが、他がからっきしでフォローのしようがない。
春市はそうだね、と素直に頷き、今度一緒にやろうかと提案した。半ば社交辞令、半ば本気の誘いで、春市は心のどこかでは「やっぱり投球練習する!」と宣言する栄純を想像していた。
しかし栄純は嬉しそうに笑う。
「いいの?」
「え?うん」
まさか本気だとは思っていなかったので驚きつつも春市は頷いた。というか、春市の提案を聞き返すのは栄純らしからぬことで、春市はますます混乱した。
栄純は嬉しそうに良かった、今度は俺も誘えよなっ!と朗らかに笑い、ちらりと亮介へ視線を向けた。また一瞬、兄の顔が曇るのを見逃した春市ではない。…が、栄純の瞳が揺らいだのには気付けなかった。
「えと…お兄さん、いいですか?」
「何で俺に聞くの。春市との約束だろう?」
「あ…はい、そうっすね」
「時間が合えば一緒にもするだろうし。別に約束して一緒に練習してるわけじゃないけどな」
「!はい!わかりやした!」
短い会話を終えてさあ帰るよと春市を見やった亮介は、怪訝そうに眉を顰めた。弟はぽかあんと自分を、自分達を見つめて固まっている。
「行くよ、春市」
「え…うん…」
栄純にまた明日!と手を振られ、今度は固い笑顔しか返せなかった。
春市は先を歩く亮介に慌てて追いつきつつ、考えをまとめて更に混乱した。
「兄貴、あのさ、」
「何」
「栄純くんのこと、気に入ったの?」
亮介は足を止めた。突然のことに春市は彼にぶつかりかけ寸での所で踏ん張る。
彼は表情こそ変えていなかったものの、怒っているか、もしくは動揺しているに違いなかった。ぱち、と瞬いた両眼に春市が映る。
彼は彼で、何て痛い所を突くんだと思った後に自分の動揺の理由が判らずはっとした。
栄純のことが気に入った?今の会話の何処を見たらそんな風に思えるというのか。
――違う。問題はそこじゃなく。
何故動揺したか、ということだ。何変なこと言ってるの――それで事足りただろうに?
黙りこくった亮介に、春市は内心でやっぱりと思った。彼が笑顔でなくなるとき――それは、彼が必死なときであり、相手に何らかの興味を持っているときだ。
春市は別に悪いことではないと思う。自分も栄純が気に入っているし、兄貴もそうならいいことだ、と漠然と考えた。
「栄純くん、いい子だよね」
兄貴が関心を持ってくれて嬉しい、と本当に嬉しそうに言う春市に、亮介はため息をついた。
そして「無関心ではない」という状況に目を見張った。思わず手が口に伸びる。
――無関心の、反対は。
ほとんど閉じられた瞼の裏で、凛とした聖女の笑みがちらついた。
がらがらと音がして、ああこれが落ちるってことか、と眉を顰めた。
愛の反対は憎しみではなく無関心なのです。
――ならば、無関心の反対は?
終
相互記念に<Nostalgia.12>の奏あずさ様に捧げさせて頂きます!リクは「亮沢」でした。
せっかく亮沢リクを頂いたのにこんな話ですみません…!
自分では結構好きなネタだったりしたのですが、文章化したら思いの外春っちがでばっていました…。恋心に気付く亮介さん、ということで。一応色々仕掛けはしたのですがわかりにくいですね!まあ無かったことに…(え)
亮沢といより亮→沢+春っぽいですが、栄純は亮介さんのことを微妙に気になっているがゆえいつもと多少違う行動を取っているようです、よ。←
相互ありがとうございました!これからもどうぞ宜しくお願いしますv
08/11/13