21時20分頃の話
ひょこり、と。
視界の端に入ってきた影に、気付かないとでも思ってたか?
一番風呂は一家の大黒柱から入る、というのは古き良き日本の家庭のテンプレートだが、ここ青道高校野球部では微妙に事情が違った。
一番偉いのは監督だろうが彼は自身のトレーニングもあるため一番になど入らないし、三年が先かと言えばやはり自主練やら何やらで入る順はバラバラである。一年は洗い場が満杯になっているときなどは遠慮せざるを得ないものの、それ以外に不利益を被ることはなかった。背を流させる、というのは高野連からの通達もあって禁止である。
以上の理由から、風呂における注意は「静かに迅速に入る」くらいだ。合宿中の一年に関しては「寝ない」が付け加えられるが。
好きなときに風呂に入れるので遅くまで練習に明け暮れる寮生にはありがたい。とはいえ二十四時間制でもなく、深夜十二時には閉まってしまう。練習を終えたら真っ先に向かう者も多かった。その後の自由時間を楽しむためだ。
自称練習の鬼?な栄純は早めに夕食を食べてから部屋で宿題をして過ごし、その後八時近くまでの自主練を終えると大抵降谷と風呂に入る。二人とも夜間照明が消えるギリギリまで練習しているからそうなってしまうだけで、決して示し合わせてはいない。断じて、だ。
時折同じように自主練明けの増子や結城に出くわすこともある。彼らは無理し過ぎないように、だとか最近の調子はどうだ、などと声をかけてくれた。たまに風呂上がりのジュースを奢ってもらえたりする。部屋に持って帰ると先輩の餌食になるので栄純も降谷も急いで飲み干した。
今日もそんな風に増子にジュースを奢ってもらって、二人で飲む。一応彼らにも遠慮があるので買ってもらうのは一番安い缶のスポーツドリンクと決まっていた。
風呂の脱衣場の外に二人で座るのにちょうどいいくらいの長椅子があるので、二人はそこでジュースを飲み、たわいない話をする。
「今日は俺の勝ちだったなっ!」
「何が?」
「何がって…タイヤ引き!俺のが速かった!」
「あれは君の方が早くスタートしたから…」
「言い訳禁止!」
ぺし、と降谷の額にチョップを入れる。倉持の「タメ口禁止!」と亮介のチョップが混ざっているのだが、栄純本人は気付かずやっているらしい。
満足そうな栄純をじと、と見つめ、降谷は大して痛くもない額を押さえた。
そして降谷は首を傾げる。栄純の手の中では未だ飲み干されていない缶がゆらゆら揺れていた。
いつもより飲むスピードが遅いのは、気のせいだろうか。
「沢村」
「ん?」
「……」
なんとなく、聞いてはいけないような気がして。
「今から御幸先輩のとこに行ったら、ボール受けてくれると思う?」
「はあ!?風呂に入った後でアイツがそんなことするはずねーじゃん!」
「だよね」
わかっていたならどうしてわざわざ聞いたのか、と栄純はつっかかったが、降谷はいつも通り無視を決め込んで最後の一口を飲み干した。
栄純はまだ、長椅子に腰かけて足を揺らしている。夏の暑さで手の中のドリンクはすっかりぬるくなっていそうだ。
「まだいるの」
「え?ああ…うん。お前先行ってろよ」
「うん」
降谷は否定する理由も見つからなかったので大人しく頷き、また明日、と一言言い置いてそばにあったゴミ箱に缶を捨てた。カラン、と軽やかな音が鳴ってゴミ箱に収まった缶には見向きもせず降谷は栄純に背を向け――そう言えば、と壁にかけてある時計を見やった。
今日は風呂に入るのが、いつもより少しだけ、遅かった気がする。
栄純は降谷が去るのを見てほっと一息ついた。
手にしたスポーツドリンクをぐいっと勢いよく飲み干すと立ち上がり、ゴミ箱に缶を捨ててから所定の位置へ向かう。
風呂場に隣接する脱衣場の前はフリースペースのようになっている。
そこは脱衣場を出て向かって右手の廊下へはそのまま道が続いていたが、奥にあるもうひとつの廊下は面しているのに観葉植物が並べられ通り抜け出来ないようになっていた。そちらは外へと繋がる通路であるため、以前は練習を終えた野球部員がそのまま風呂へ直行して泥だらけになってしまっていたらしい。今でも猛者は大きな葉を広げる観葉植物の間を通って風呂に行くのだが、いわゆる偉いヒト、に出会ってしまった日には説教必至だ。
栄純は辺りを見渡して誰もいないことを確認してから名も知らない木の向こう側へ出て、木の陰からさり気なく風呂の引き戸を窺った。だからといって中の様子がわかるはずもないが、近くで見ていたら怪しまれるかもしれない。
まるで今来たばかりのように、さり気なくさり気なく。さすがに植物越しに覗きこんでいては目立ちすぎるので、そちらには背を向けてズボンのポケットから携帯を取り出す。こういうとき、携帯電話を生み出した人は神かもしれない、と栄純は思う。「それらしく」見える、というのがポイントだ。
――あー、みんなからメール着てたっけ…。
栄純はメール返信が遅いので有名なのでそもそも重要な連絡は電話で、が決定事項なのだが、それでもちょこちょこ東京での生活を心配したり近況報告のメールが着たりする。それに必死に返信していると、これが誤魔化しという気も薄れてくるから不思議だ。
から、と引き戸が鳴ったのを耳が拾い、栄純は操作する指を止めた。
どくん、と心臓が大きく振動したのを胸に手を当てて抑えながら、栄純は風呂場へ横顔を向ける。
――き、た。
観葉植物は栄純の身長より少し低い。ここまでくるとしゃがまなければバレてしまうので、栄純は辺りに誰もいないことを確認する間もなくしゃがみ込んだ。
誰といっしょかはよく見えなかった。彼があまり大きな声で話さないせいか相手も自然と声が落ちるのが常で、やはり誰かよくわからない。背丈から言って丹波あたりだろうか。
風呂にいたのには気付いていたけれど、じっと見つめたらおかしいと思われるに違いなかったし、栄純にはこの距離がとても好ましく思える。
彼の表情が窺える位置で、栄純はその黒い瞳に彼の姿を映した。
穏やかなのは普段通り、けれどもいつもは後輩の前だからと多少引き締めてはいるのだろう、こんな風に何も考えず気負わない彼が見られるのはこんなときだけなのだ。
それはともすれば自分がいないとき、なのであって、それはちょっと寂しいけれど。
それでも栄純はそんな彼が好きなのだから、すべてまとめて好きだから構わない。
更に、こんなときでないと見られないものがもうひとつ。
前髪を、下ろした姿。
ぴっちり決めた彼ももちろんかっこいいし、素敵だと思うけれど、これはこれで。
――う、や、別に、変な意味じゃないけどっ。
頭の中で自分と葛藤して真っ赤になりつつも、栄純は彼から目を離さなかった。
だから、丹波(今度こそ顔を確認したのでわかった)と彼が何か一言二言会話を交わし、丹波が歩いてゆくのを見送る彼を見て、はて、と瞬きをした。いつもなら誰かといっしょにいるときはその誰かと歩いてゆくはずなのに。
そして彼はおそらく丹波の背が見えなくなった頃合いに、穏やかだった瞳を突然こちらに向けた。
――へ、
すたすたすた、と彼は一直線にこちらに向かってくる。
栄純は慌ててそのしゃがんだ態勢のままに走りだそうとしたが、時既に遅し、というやつだった。
「沢村」
彼は観葉植物の上から栄純を覗き込み、怒っているのかどうなのかよくわからない声をかけた。静かな、けれどただ優しいわけではない彼らしい声音。
さっきまで友人と穏やかに談笑していたのにそれを壊してしまったみたいで、栄純の心に罪悪感が滲んだ。
「あ、あの、その」
「昨日も」
彼の声が栄純の言い訳しようとした言葉を遮る。
栄純が顔を上げると、彼は厳しい顔を向けていた。
「昨日も、その前も、いたな?」
「へっ…!?く、クリス先輩、知ってて…!?」
「当たり前だ。あの時は練習帰りだったみたいだが…いくら通りすがりでも、こう毎日じゃおかしいだろう」
呆れたように言うクリスに、栄純ははっとすると立ち上がる。規律を叩きこまれているせいで、先輩の前でしゃがんだまま、というのはさすがに気が引けた。
近くで見る彼はやはりかっこいいなあ、といつもなら思えるのだろうけれど、今はとてもじゃないがそんな気分にはなれない。
――怒ってる、絶対怒ってる…!
こそこそと盗み見していたのだ。いい気がするはずがないではないか。
栄純は頭を垂れてぎゅっと目をつぶってお説教を待った。それからもしかしたら――嫌われたりしてしまうんじゃないか、という絶望的な可能性もどこかで感じながら。
クリスの手が肩に乗る。栄純はびくりと震え、怒られるのを待つ。
けれど、来ると思った静かな怒声はなく、彼の口から出たのは苦笑ともつかぬため息だった。
「まったく、」
くしゃり、髪を掴むように頭を撫でられる。
「そばに来れば良かったのに」
「え…」
クリスはこの、非常に物分かりの悪い弟子に嘆息する。
「お前、楽しみにしていたのが自分だけだと思っているだろう」
「…、え!?」
「そういうことだ」
彼が、自分に会うのを楽しみにしていてくれた?
全部知っていて何も言わなかったのは――だから?
栄純が顔を上げるとクリスの端麗な顔がすぐそばにあり、栄純はガチッと固まった。
前髪を下ろしているから特別なんじゃない。でも、栄純のそばにいるにしては彼の纏う雰囲気は穏やかで、もの凄く、心臓がうるさい。
「ク…リス…せんぱ」
「こういうときは、目を閉じるものなんだがな」
苦笑は消えないままクリスは栄純の真っ赤な頬に手で触れ、ほんの数センチ、引き寄せた。
カサリ、と葉が音を立てた。
「…!!」
約十秒後、栄純は解放されて真っ赤なままにふらふら後ずさった。
キスは初めてではないが、部屋の中とか絶対に誰も来ない場所でしかしたことがなかったので、そういうものなのだと信じきっていた。今も唇が触れるその瞬間まで、キスだと気付かなかった位に。
「なん…なんで、こんな、あぅ、でも、」
栄純はなんだか頭がぐるぐるし出して、このままここにいたら死んじゃうんじゃないだろうかと思った。
クリスはクリスで混乱させても仕様がないとわかってはいたが、今の状況で説明に足る言葉はあまりに直接的過ぎた。
だから少々の誤魔化しを混ぜて。
「そんな、風邪と危ない奴らを誘発する格好でいるからだ」
「…?」
キッパリ言われて栄純は自身を見、半そで短パンのどこに問題があるのかときょとんとしてしまった。が、とりあえず自分が悪いから頭を垂れ、すいやせん、と謝った。
「クリス先輩が髪下ろしてるの見たくて…それに、先輩すごく…その」
「すごく?」
「きっ、気を抜いてるってわけじゃないんです!でもなんか、俺といるときより…リラックス、してるというか」
今度はクリスが目をまるくした。そして途端に眉根を寄せる。
この子は本当に、他人に好意を注ぎ込まれるのに慣れていないようだ。あれだけ大人数に慕われているのにこれでは、他の奴らが多少不憫ではある。
呆れられてしまったんだと栄純は青くなったが、もう一度近づいてきた彼の顔に赤くなった。
今度はぎゅっと目をつぶったが、想像していた感触は無い。
ただ耳元で、熱い息が零れた。
「好きな奴の前で大人ぶるこっちの身にもなってみろ」
「ふえ…?」
「それから……降谷」
「え、ふ、降谷っ?」
「ああ。この浮気者」
「えっ」
それから耳元に、ちゅ、と音を立ててキスが落とされる。
「〜〜〜っ!!?」
「早く寝ろ…危険だ、本当に」
それがどこにかかるのか栄純はとっさには理解できなかった。危険なのが自分なのか他人なのか彼なのか、選択肢すら真っ白だった。
とにかく栄純はこくこく頷き、ゆでダコのように真っ赤に染まった顔を腕で隠して走り出した。
「おっ…やすみ、なさいぃ!」
「お休み」
すさまじい足音と共に駆けてゆく年下の恋人を眺めて、クリスは幸せそうにため息をついた。
頬が熱いので、のぼせたかな、とうそぶきながら。
終
相互記念に<レインぼぅる>の春原そら様に捧げさせて頂きます!リクは「イチャ甘クリ沢」でした。
まず言わなくてはならないことが、ちっとも甘くないということですね。(致命的すぎる)
そしてなぜに降谷…気付いたらしゃしゃり出てましたが別にクリ沢はらぶらぶなので大丈…夫!なはず!←
本当にすみません…空月の限界がこれでした…orz修行し直してきます!(脱兎)
髪下ろしたクリス先輩はかっこいいなあと思った空月の妄想をぶち込んだだけでした何てこった。
どうぞ煮るなり焼くなりお好きにしてやって下さい。次はもう少しまともな甘い話が書けるようになりたいと思います…!
相互ありがとうございました!これからもどうぞ宜しくお願いしますv
08/10/19