桜。誰かが呟いた。
 その声に呼応するように周りの人間は顔を上げ、ああ、とか、おー、とか、曖昧にそれを受け入れた。
 それは疲れてひっくり返っていた降谷も同様だった。彼の場合声を出したりしないけれど、ああ、桜。と、とりあえずは心の中で言い、上体を起こしてみる。
 去年も見た桜が、今年もつぼみを弾けさせて薄桃色の花を咲かせていた。まだ目を凝らしてみないとわからない程度の数、それでも確かに桜。
 毎年桜だ桜だと騒ぐ他人の気が知れない降谷ではあったが、これ自体は純粋に美しいものだと思う。時折目に入れば気持ちが安らぐような気になるし、桜吹雪などは圧巻だ。初めて青道に来たときはすでに満開の盛りを終えていたが、それでも立ち並ぶ桜並木は印象に残っている。
 きれいなものは、いいものだ。
 周りは練習を続けながら花見に行きたいだの行く暇がないだの行く相手がいないだのと雑談をしていた。しめる時はしめる青道野球部も、こんな春の穏やかな日にはこういう独特の和やかさが溢れ出るときがある。野球だけ、と思って生きてきた降谷も、この雰囲気は嫌いではない。むしろ好きだ。


 さくらかー。


 ぼんやりしていると頭上から声が聞こえた。降谷なりに多少驚いて振り向くと、そこには沢村栄純がいた。仁王立ちで。
 沢村の声は独り言のようにも聞こえたし、ひどく穏やかで柔らかかったのでたぶん独り言なんだろう。けれどどうも自分に向けて言われた言葉のような気がして、降谷は口を開いた。


 桜が、どうかしたの。


 沢村はちら、と降谷を見下ろすと、また桜の大木に視線を戻す。普段ならぎゃんぎゃん騒いでつっかかってくるに違いないのに不思議だった。


 きれいだなあって。
 うん。そうだね。


 珍しく意見の一致を見た、と降谷が思った瞬間、沢村は弾かれたように降谷を見た。目をまんまるくさせ、動きが止まっている。
 そんなに驚かせることを言っただろうか、と降谷が呆気にとられた顔をしていると、沢村が不思議そうに尋ねた。


 え、お前、さくら知ってんの?
 え。
 北海道にさくらって咲くんだ!?へーびっくり!





 そう言って、沢村は笑った。春のうららかな日差しの下、きらきら輝く笑顔だった。














「別に、いいのに」


 降谷が呟く。別にいいといっている割に、その口調は期待を押さえつけきれていないらしい。トーンがほんの少しだけ上がって、嬉しそうだ。
 暗闇の中では(そうでなくても)それに気づくはずもなく、ただ単に降谷の拒否権を認めていないだけの沢村は、彼の前をずんずん進む。日中あれだけ練習してどこにそんな元気が残っているのだろうか。


「いーじゃん、たまにはさ。息抜きだ息抜き!」
「…じゃあ、他のみんなも連れてくれば良かったのに」
「……」


 そこで赤くなって「だって二人がいい」としどろもどろに口にする…という降谷の想像に正面からタックルをかけるように、沢村は顔を輝かせた。


「そーだな!春っちや御幸や倉持先輩や川上先輩やマネの子や…みんないた方が楽しいよな!」


 てめーたまにはいいこと言うじゃん、とでも言わんばかりの笑顔で逆走しかけた沢村の首根っこを降谷が引っ掴む。勢いをつけすぎた沢村は、がくんと揺さぶられ転びそうになった。


「何すんだよ!?」
「それ…こっちのセリフ」


 沢村はあからさまに不機嫌に睨んでくる降谷を首を傾げて見上げ、けれどそれ以上は抵抗しなかった。また進路を進む。
 青道高校の校舎裏手。野球をするには狭く、ドッヂボールをするにはやや広い敷地が草地となっていて、昼間は弁当を食べたり談話したりする生徒で溢れる場所だ。けれど今は深夜に近いこともあり、誰の姿もなくひっそりとしている。
 校舎の陰から現れた二人の目の前には。


「ほら、あれ!」
「!」


 沢村が嬉しそうに誇らしげに指差したのは、その中にある一本の桜の木だった。あまり日当たりのよくないこんな場所にある理由は定かではない。
 日向にある桜たちとは違い小ぶりだが、幹は太く両腕を回しきれるかどうかというくらい。全身に桜のベールを纏ったように花咲かすその姿に、月夜のやわらかな光が降り注いでいる。
 昼間見た桃色の花は、ここでは紫にも白にも光って見える。
 降谷は純粋に驚き、昼間と同じようにきれいだと思った。


「だろ?」


 沢村に笑われて、ああ口に出ていたのか、と気づく。


「うん」


 歩き出した沢村の後に続いて、木の下までやってくる。二人は根元に腰かけて、頭上を見上げた。自分たちの上から顔のすぐそばまで、沢山の枝が沢山に花を散らして揺れている。
 風が吹くと、川が流れるみたいに花が黒い背景に流れていった。


「きれー」
「…うん」


 独りごとのようにささやかれる言葉に、降谷はうなづき、顔を沢村に向けた。
 ねえ、どうして。それを聞きたかったけれど、静かな桜の下で二人きり。それには野暮すぎる気もするのだ。


 ――どうして、君だけの秘密の場所に、連れてきてくれたの。


「さわむら」


 沢村は飽きずに桜に向けていた瞳で降谷を映した。


「うん?」


 ことり、と首を傾げるしぐさが可愛くて、ちょっと視線を外す。
 やっぱり多少恥ずかしいから。


「…きみ、バカだよね」
「は!?」


 ああ違うそうじゃなくて、と思っても後の祭り。いつも通りの嫌みの応酬になってしまうに違いない。
 なんで自分はこうなのだろうと瞬間自己嫌悪に陥りかけた。けれど沢村を見ると、沢村は眉間にしわを寄せて、悔しそうな、それでいてさびしそうな顔で降谷を見上げてきた。
 捨てられた子犬そっくりで、思わず抱きしめそうになる。危ない。


「ごめん」
「嫌なら、嫌だって言えばよかったのに」


 素直に謝ると、きっぱり返された。
 目尻に涙が浮かびそうになるのを必死に耐えている。それがこちらにまで伝わってきた。
 沢村は感情の変化が激しい。感情がそのまま表に出るのって才能だなと降谷は思う。だけどたぶん本人はそれにまったく気づいていないのだろう。


「嫌なら、帰ればっ?」


 降谷が嘆息すると、「ため息をつきたいのはこっちだ」と言わんばかりにそっぽを向かれてしまった。そういう意味の嘆息ではないのだ。これは単に、自己嫌悪で。まあ、あまりにも鈍い沢村を多少非難しているも確かだけど。
 仕方ないので降谷は木を見上げる。桜の花が幾重にも重なって、厚い層となっているせいか、頭上の花々は重たそうに見えた。


「…いやなら、なんで来たんだよ」
「いやじゃ、ないよ」


 言って、それからむしろ聞きたいのはこっちだと思った。


 ――どうして、僕だけをここに連れて来てくれたの?
 ――どうして、僕の前でそんな可愛い顔するの?
 ――僕のこと――どう思ってるの?


「北海道で桜が咲かないなんて思ってるとは思わないでしょ」
「!…クリス先輩にも同じこと言われた」


 余程それがショックだったのか肩を落とした沢村に、降谷は微妙な気分になる。沢村は彼のことをとても尊敬していて、大好きだから。その気持ちを否定する気はないが、やっぱり多少辛い。


「だって、長野より北にあるじゃん。すっげー寒いんだろ?」
「そりゃそうだけど…さすがに桜くらい咲くよ。だいいち、咲かなくたって存在くらい知ってるでしょ普通は」
「だって…雪、長野より降るって言ってたんだもん」


 むう、と頬をふくらませる。言い訳じみた物言いが子どもっぽい。


「桜は、咲くよ」


 きっぱり言って、沢村が見ていないのをいいことに、こっそり笑う。
 沢村は自分が北海道出身だって覚えていてくれたのだ。昼間はどちらかというとそのことに驚いて、沢村の発言がおかしいとかは思わなかった。故郷の話がその口から出るたびに、じんわり心があたたかくなる。ああ、あの場所は確かに辛いことを今だって残していて、けれど自分にとっては誇るべき故郷なのだと思わせてくれる。
 そんな沢村は、すごく、愛しいんだ。
 沢村はなんだか嬉しそうな降谷を不思議そうに見つめ――じっと見ていた自分に気づいて慌てて視線を逸らした。まだ許してはもらえないらしい。やれやれ。


「…ゆき」


 沢村はぽつりとつぶやいて、降谷を振り返った。降谷に首を傾げられて、むすっとした怒り顔を作って尋ねる。


「お前、雪降ったらまず何する?」
「…雪?」
「おう」


 降谷は考え込んだ。青道に来てからずいぶん経っていて、その間雪は一度たりとて降っていない。
 首を傾げ、傾げ、傾げ――降谷は口を開く。


「雪かき?」
「おっまえ、夢ねーなー」


 沢村がようやく笑った。人を小馬鹿したものだったけれど、それでもちょっと安心する。


「君は?」
「食う」
「……は?」


 沢村はそれが当たり前だとばかりに胸を張った。


「雪が降ったら外出て口開けて、食いたくなるんだよな〜」
「子どもっぽいね」
「うるせー!お前だってたまにやるだろ?」


 どうなんだと顔を覗きこまれて、降谷は眉間にしわをよせた。
 子どもの頃にやったかもしれないが、そんな昔のこと覚えていない。というか、あんまり顔を近づけるのはやめてほしい。
 ちら、ちら、ちらと。
 沢村の後ろを、横を、ふたりのあいだを、桜が舞う。
雪みたい、だ。


「ふる、や――?」


 何も返さない降谷を不思議がって首を傾げて尋ねる沢村に、花びらが舞い落ちる。
 沢村の肩を掴んで、引き寄せて。前髪にかかった薄桃色の花に、口づけた。それから頭のてっぺんに乗った花に、耳元に落ちてきた花に。ちゅ、と口づけを送る。


「はっ…?」
「あぁ、ごめん――」


 目をまるくした沢村に、


「ゆき、食べるんでしょ?」


 きょとんとしたその隙を狙って、沢村の唇に桜を押しつけて。


「むっ!?」


 桜の乗った唇に、自分の唇を押しあてた。
 花びらごとやわらかい唇を食む。あまくて、あたたかくて、いいにおい。
 肩を掴んだままそっと離れると、沢村は信じられない!といった顔でこちらを見ていた。


「な、な、おまっ…」
「うん、確かに」


 食べたくなるね。
 そう言ったら、沢村が思いっきり可愛く、思いっきり赤くなったので。
 思い切り、抱きしめて倒れこんだ。
 花びらの絨毯が弾けて舞って、視界を桃色に染めた。





 ここに雪は降らないけれど。


 君がいれば。


 いつだって、最上級に幸せでいられるよ。








「〜〜〜〜〜〜っ!ちょっとは桜を見ろこのばか―――っ!!」












相互記念に<顎蹴り。>の山神伴様に捧げさせて頂きます。リクは「降沢」でした。

なんだかまとまりのない話ですみません;ネタ段階ではもうちょっとマシだったんだけどなアレー?とか思いながら書いておりました。
降沢ってどっちも雪多い土地から来ているので雪に対する思いも格別なのでは、と考えたりして、こんな話に。お花見のはず&夜桜をテーマにしたはずだったのに思い切り脱線しましたあちゃー。

なんだかラブラブなんだかそうなんだかわかりませんが、これを傍目から見た日にゃあ他の部員は石化すること間違いなし、くらいには仲良しさんだと思います。ちなみに二年設定です。
もう、タイトルは「花より栄純」とかでいい気がしてきました最後の方(笑)。

お待たせした上にこんな駄作で申し訳ありませんでしたー;どうぞ煮るなり焼くなりお好きにしてやって下さい。
相互リンクありがとうございました!




08,4,15

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