Girls


 若菜は必死に携帯電話に耳を押し付けていた。ともすれば電話越しの相手の声が、外の雨に掻き消されそうになるのを防ぐために。
 そうでなくても聞き辛いその途切れ途切れの嗚咽を聞き漏らすまいと、若菜は眉間に皺を寄せてまで必死に耳を傾ける。
 ざあざあと休む間なく降り注ぐ雨に混じって聞こえてくる、言ってしまえば泣き声。それも失恋の涙。
 若菜はこういう展開に慣れていない。若菜のそばにいる女の子達は穏やかでのんびりしていて、悪く言えば少々子どもっぽいところがある。田舎だからそうなのかよくわからないが、誰が好きかというお決まりの話はあまり聞いたことがない。そもそもいないのかもしれなかった。長野の山間部にある、統廃合決定済の学校にはようやく野球チームがひとつ組める程度の生徒しかいない。生まれてから同じような面々と顔を突き合わせて生きていると、自然と恋愛よりも友情や一種家族愛みたいなものの方が強いのかもしれない。
 けれど若菜も女の子だから、興味がないわけではなかった。それがどんなふわふわした優しくて甘いものなのか、知りたくなることは数え切れないほどあったのだ。
 しかし真実に(この場合は「事実」が正しいのかもしれないが)気づいたのは、もう後の祭りになってからだった。甘さも優しさもあたたかな感触も知らぬまま、若菜は胸の辺りにわだかまりとからっぽの気分との両方を味わいながら痛みに耐えた。
 だから慣れてはいないけれど、電話の向こうで春乃が泣きじゃくる理由がわかならないほどではなかった。
『わかってたの』
 震える声の後に、また嗚咽。普段の可愛らしい鈴の鳴るような声ががらがらと変わって耳に痛い。
『沢村君が…私のことを好きになってくれるはず、ない、って』
 震えていたが文脈も言葉もしっかりしていて、若菜はこれなら何とか大丈夫だろうと思って安心した。泣いてすっきりするなら泣けばいい。黙って聞いていたのも無駄ではなかったようで、ふう、と息を吐く。
「あいつ、鈍いから…戸惑っちゃったんだと思う。ごめんね」
 若菜が謝っても春乃が栄純にふられてしまったという事実は変わらないが、つい姉貴分気質が出てしまい謝罪する。
 携帯電話の向こうで首を振る気配がした。直接会ったこともない彼女はとても凛としていて、強い。言ったら恥ずかしがるだろうけれども、春乃は栄純への想いをしっかり伝えるという勇気を持っていた。それだけで十分なようにも若菜には思える。
 電話の向こうから、唾を飲み込む音が聞こえた。
『ごめんね。若菜ちゃん…』
「え、なに、謝るのは私…というか、春乃ちゃんを泣かせた栄純だってば!」
『……』
 春乃は黙り、もう一度小さくごめんねと呟いた。
『わたし、沢村君には好きな人がいて、その人が沢村君を好きだって知ってた』
 涙で擦れ気味の声が、若菜には非常によく聞こえた。恋に破れて泣いてばかりのときは、彼女の中では終了したらしい。やはりしっかりしている。
 それともここまで来る前に泣いてきたんだろうか。例えば、栄純の前で。
『でも、言えば、言わなきゃ、それを受け止められないって思ったの』
「うん、えらい。春乃ちゃんは本当にえらいよ」
 心の底から思った。同じ女としての最高の賛辞のつもりだったが、失恋した後に何を言われても特効薬などありはしないのだろう。
 それを知っている春乃は小さく苦笑してありがとう、と言った。
『好きです、って言ったら、沢村君、困った顔してたよ』
「あー…あいつ、泣いてなかった?それと、変なこと言ってなかった?」
『うーん…真っ赤になって、それから――ごめん、って』
「……」
 栄純はきっと、春乃の想いをまっすぐ受け止めたかったんだろう。可能ならば。
 しかし彼にはもう想い人がいて、春乃の言うとおりその想い人も栄純を好きなら。
「……そか」
『うん』
 もう一度謝りたかった。何に対してなのか若菜自身わからなかったけれど、謝りたかったのだ。
 そしてとにかく口を開いた瞬間、春乃の声がそれを遮った。
『悲しいけど、でもね、わたし、うれしい』
 耳を疑うような言葉を聞いて、若菜は目を見開く。
 春乃の声は、まだ恋をしているみたいに、甘い。夢を見ているみたいに優しい。
『沢村君が、沢村君の大好きな人と一緒に幸せになりたいって言うのなら、わたしはきっとそれが一番幸せ』
「はるのちゃ…」
『わかってるんだ。思い上がりでエゴで勘違いで…でもね、今、そう思って泣いてたの』
 彼と自分のために。
 若菜は目を擦った。涙が出ている気がしたが、ただちょっと痛いだけだった。
 春乃は強い。きちんと告白して、玉砕して、それでも自分が壊れないように栄純との関係を壊さないように、今、泣いている。そしてきっと明日はいつも通りに笑えているんだろう。ときどき栄純と気まずいことがあっても、少しだけ悲しそうに笑って、大丈夫、ありがとう、と微笑むんだろう。
 春乃は首を後ろに倒して天井を見た。妙な痛みが首筋に走り、今度こそ本当に泣きそうだなと思った。
『ごめんね若菜ちゃん』
 わたしは、あなたが彼を好きなのも、知っていたのに。
「――ううん。それはわたしも。むしろ、ありがとう」
 栄純のことを第一に考えて、自分ができる精一杯で彼を守ってくれる恋敵に、若菜は告げて電話を切った。
 もしかしたら。
 もしかしたら、穏やかでのんびりしていて、悪く言えば少々子どもっぽいところがある彼女達も、こうやって栄純をあきらめていたのかもしれない。
 そう思って、若菜は少しだけ泣いた。











08,09,20