暁がまだ、自分を暁だと思っている頃のことだった。
その頃の暁は毎日ぼんやり過ごしている、世間一般的には「とろい」少年だった。
何をやらせても他の子どもよりワンテンポ遅れる。北海道の片田舎で生まれ育った両親はさして気にしなかったから、それは余計にひどくなった。更に暁は置いていかれるのは寂しく、悲しいと思っても、それ以上の感慨を覚えることがなかったので、拍車がかかった。
暁の興味が向くのは、他人というより大自然に対してだった。日がな一日ぼんやり過ごしていても、食事の時間を守り家の手伝いをしひどい怪我をしなければ(ひどくない怪我はした方がいいと父親は笑う)、両親は何も言わない。
ただ幼稚園や保育所は誤魔化せても、小学校に上がる位から雲行きが怪しくなってきていた。日本の学校教育の主たる目的は「集団行動を身に付けること」であり、一人っ子の暁にはそれだけでかなり高いハードルだった。
埋没してしまえばいいという意見もあろうが、それがどれほど難しいことか大人も子どももわかってはいない。自然に埋没出来るまでに幾らか傷つかなくてはならないのだ。
学校は楽しいか、と尋ねる両親に、暁は素直に首を振った。横に。
そこまで心配することでもないのだろう。両親はもう少し様子を見ようと考えていたが、どこから話が漏れたのか親類から転校まで勧められる始末で、両親は呆れた。
ただ、小学校疲れが出始めた息子をこのままにしておくのは確かに良くないとわかっていたので、父は息子に提案をしてみた。北海道から出てみようか、と。
暁にとっての世界は言わずもがな北海道だけだったから、それはとても不思議なことに思えた。それからほんの少し、胸が高鳴った。気付いたときには頷いていて、アクティブな両親はゴールデンウイークに向けて旅行の準備を始めた。
学校で少しだけ話したことのある少年に話してみると、馬鹿にされた後羨ましがられた。他の少年少女達も似た反応を見せ、いよいよ暁の期待も膨らんだ。
アクティブな割に計画性の無い両親は、準備を始めてからどこへ行こうか考え始めた。あまり南だと衝撃が強すぎるし、何より暑い。かと言って東北では暁を驚かすには足りない…(いつの間にか彼等の中でいかに暁を驚かすかに焦点が移っていた)。
そんなこんなで出発の日が近付き、彼等は敢えて東京を選んだ。自然が無いビルの摩天楼も一度は見ておいて損は無いだろう。
かくて生まれて初めての飛行機に乗り、東京へ旅立ったのが五月三日だった。北海道はきれいに晴れていて行楽日和だったが、東京は曇天だった。暁が驚いたのはまずそこだった。北海道と東京では天気がこんなにも違うのかと。
動物園や遊園地など、全てが暁にとって驚きの連続だった。まず人がこんなにいる場所を知らなかったので、何回かはぐれかけた。
そして二日目、太陽が中天に昇る頃、昼食と水族館の合間に。
見事、はぐれたのだった。
暁が辺りを見渡しても両親の姿はない。あ、迷子。暁は思った。彼等は迷子になったに違いない。ぼんやりな自分より数倍はしゃいでいた彼等なら有り得そうだ。
こういうとき動き回って探すのは危険なのではぐれた場所に待機が原則だが、暁はそれを知らずにやってのけた。要は性に合わなかったのである。
昼食を食べたレストランの前できょろきょろしていると、レストランの店員らしい女性が出てきてどうしたのかと尋ねられた。暁が、迷子で、と言うとすぐ意味を理解したらしく――その間には齟齬があった訳だが――彼女はにっこり微笑んで、大丈夫、すぐ見つけてあげるからね、と言った。暁は安心して頷いた。彼女はきびすを返して、警察にでも連絡しに行ったのだろう、店の中へ駆けていった。慌てていたのか、暁をその場に置いたまま。
辺りをもう一度見渡し、暁は正面に公園があるのに気付いた。背の低い暁にはぐるりと公園を囲む灌木が壁となって見えなくなっていたのだった。暁はそこに向かって歩き出した。人間安心すると、妙な勇気が出てしまうらしい。
公園には誰もいなかった。休みだから逆に東京の人間は郊外に出ているのだが、暁はそれを知らない。寂しいところ、と思って唯一有るブランコに腰掛けた。
ゆっくりゆっくり漕いで、何だか眠いなと目を閉じかけた瞬間だった。
視界の中に人間がいるのに暁は気付いた。びっくりして眠気が飛んだ。しかし視界の中で動いたものは何もなく、要は初めからそこにいたのだ。あまりに静かで動かないから気付かなかっただけだった。
砂場にちょこんと座り込んだ少年は、暁とそう歳が変わらなく見えた。あどけない顔は眉間に皺が寄り、ぎゅっと真一文字に結ばれた口は永遠に開かないように見える。
暁は少年をじっと見つめた。気付かない。それでもじっと見つめ続けた。
やはり彼はこちらを見ない。
何だかそれが理不尽に思えた暁は、ブランコから降りた。金属が軋む音が響き渡ったが、暁のスニーカーが小石を蹴り上げたが、変わらず少年はうずくまったままだった。
少年のすぐ近くまで来てみて初めて、耳が聞こえないのかもしれないと暁は思った。
そういう人に会ったことがない暁は突如呆けた。どうしよう、そう思った瞬間、暁の影が少年にかかって彼は振り仰いだ。
ぱちっと瞬かれた瞳はまるく大きく、何かに似ていると暁は思い――けれど、それが何なのかは終ぞわからなかった。
少年は突然現れた少年を口を開けて凝視していたが、降り注ぐ驚愕の中ぱくぱく口を開閉した。
「おまえ…だれだ?」
暁は目をまるくし返した。何見てるんだとか、あっち行けよとかなら反応出来たのかもしれない。しかし誰、と聞かれて暁も困った。名前を言えばいいのか?しかし彼は知り合いではない。
だから返答がぶっきらぼうになってしまったのだ。
「きみこそ、だれ?」
「え」
少年はぱちくりと目を瞬かせ、まじまじと暁を見つめた。何か見知らぬ生物を見るような目だった。
「おれ、えい」
少年は不思議なことを言った。えい?首が傾いだ暁に、頷いて、なまえ、と言う。不思議な名前だと暁は思った。そういう魚がいたな、とも。
そして、ああ、名前を言えばよかったのか、と少々間違った結論を導き出した。
「ぼく、さとる」
「さと…?」
こてり、と首を傾げた様が、自分と同じことをしているに過ぎないのに何だか可愛らしかった。
暁はほんの少しの高揚感を持ちながら、頷いた。
「うん、さとる」
「さとる」
「うん」
「えい」は暁が頷いたのを見て笑った。どうして笑ったのかはわからない。安心したのかもしれなかった。
「えい」は勢いをつけて立ち上がるとぱんぱんと尻に付いた砂を払った。
くるりと暁に向き直り、間近でじっと見つめる。
並んでみると、「えい」の方が若干背が高かった。数センチ程度。暁はなんだかな、と思った。
「おまえ、ここのひと?」
「ううん。りょこうで」
「えい」はホント!?と言って面白そうに笑った。面食らう暁の手を取って、おれも!りょこう!とキラキラした表情で言った。
何がそんなに嬉しいのか暁にはわからない。でも、さっきの沈んだ顔よりずっといい、と当たり前のように思った。
「えい」はきょろきょろ辺りを見渡す。おまえひとり?という問いに暁は頷いた。
「おとうさんと、おかあさんが、まいごなんだ」
「えい」は目をまるくした。大人が迷子になるという話は聞いたことがない、とでも言わんばかりだ。けれど、事実なのだから仕方ない。
そして暁は気付いた。旅行なのに一人で、悲しそうにしていた訳は。
「きみ、まいご?」
「!」
彼の顔が真っ赤になった。当たったんだと暁は思い、固まっている「えい」にさびしい?と首を傾げて尋ねる。
途端に「えい」は首を横に振った。
「さびしくねーもん!それに、まいごじゃないっ!」
「そうなの?」
では何なのだろうと疑問に思った暁が次の発言をする前に、それより!と「えい」は暁に顔を近付けた。
間近で見た黒い瞳は、動物の眼のように無垢で、ただ外界を反射して世界を映し込むだけだった。何も考えが無い幼少期と馬鹿は近からず遠からずだが、それにしてもあまりにもまっすぐで、暁を映し出した。思わず逸らしそうになる視線がしかし、絡みついてしまい離れなかった。
「おまえ、ひまなら野球やろうぜ!」
「野球?」
暁が聞き返すと、うんっと元気よく頷く。
踵を返して暁から距離を取ると、やおらズボンのポケットからボールを取り出した。子供騙しのゴム製ではなく野球に使われる硬球が現れ、「えい」とのギャップに暁は驚く。
「野球、しってっか?このボールなげんの!」
暁は父親が野球中継を見ているのをそばで一緒に見ているため、細かいルールはわからなかったがストライクやボールやスリーアウトやホームランや、基本的な事柄は理解しているつもりだった。
だから「えい」が、本当にボールを投げて寄越そうとしているのを見てびっくりした。
自分はキャッチャーなのか?それともバッターなのか?
バラバラの不思議なフォームで「えい」がボールを投げた。まだまだ未発達な身体で硬球を投げるのは、手の大きさからして無理があった。しかしこだわりなのか何なのか、彼は両手で下投げはせず、片手で上投げを貫いた。
「えいっ」
楽しげな声と共に、白い放物線が春の昼過ぎの、穏やかな空気の中緩やかに描かれて、ぽーんと暁の元に届いた。
仕方無く暁が受け取ると、「えい」はにこっと笑った。あ、これでよかったんだ、と暁は思い、投げ返してみた。同じようにぽーんと空に舞ったボールを「えい」が取る。これは野球じゃなくてキャッチボールだろうと暁は思ったが、ボールを両手で握った「えい」がものすごくものすごく嬉しそうだったので、それから何だか胸がぽわぽわしたので、黙っていることにした。
白球と言うには幾らか汚れたそれが、二人の間を行き交う。迷子の件を脇に除けた「えい」は饒舌で、いろんなことを話した。暁には解読不能のこともあったが、彼らにとっては内容よりも、今ここでこうしていることが重要なのであり、二人はそれが自然にわかっていた。
学校の話になった時、暁が呆けたのを目ざとく見つけた「えい」は、だいじょうぶ?と慌てて暁に駆け寄った。
「だいじょぶ」
「えい」の一途な瞳を見たら色々決壊してしまいそうで、一生懸命顔をしかめて俯きながら暁は言った。
「えい」は暁をじっと見つめ、どうしたんだ?と尋ねた。
暁は少し迷った。このことは他人に話すべきことなのか、話していいことなのか。目の前の少年は友達がいないことをどう捕らえるだろう。
嫌われる。そう思った瞬間、世界がぐらりと揺れた気がした。こんなの初めてだった。
眼に水の膜が張り付いて怖くなった。
恐る恐る「えい」を見上げると、彼は眉をひしゃげて暁を待っていた。
怖いけれど――「えい」に、誤魔化したくなかった。
「あの」
「うん」
「ともだち、いなくて」
主語が無くてもそれは「えい」に充分通じたらしい。大きな目がますます大きく見開かれ、口がぱかりと開いた。今日初めて会ったときと同じだったが、もっと驚いているようだ。
やっぱりあんまりいいことではないんだと暁は納得して、「えい」の瞳が潤んだのに驚いた。「えい」は全然関係ないのに泣くのはおかしい。泣いてほしくない。
繕うようにだいじょうぶ、と言った。なれてるからだいじょうぶ。ひとりでもだいじょうぶ。(そして今は少なくとも君がいてくれるから、大丈夫)
「えい」は視線を暁から自分の手の中のボールに落とし、勢いよく顔を上げた。表情には悲壮の残りと、それより強い決心があった。
「野球」
「え」
「野球、やろうぜ」
暁が目を瞬かせると、「えい」は美しく笑った。何故そんなに美しく見えたのかはわからない。同じ位の歳の少年が、そんな風に見えるのはおかしいのかもしれない。
でも、確かに綺麗だった――美しかった。
「えい」はぼうっとしている暁から走ってまた距離を取った。
「いくぞ!」
めちゃくちゃなフォーム姿勢に入った「えい」に、慌てて身構える。
振り上げられた腕、手、まっすぐな顔、瞳、飛びくる白球。
すべてが拙く幼く、けれど暁には綺麗にかっこよく見えた。
胸の中で何かが弾ける感触と共にボールが手に収まる。硬いだけの無機物が妙に温かい。きっとこれは、「えい」の温かさなのだと暁は知った。
「さとる」
目を上げて「えい」を見ると、誇らしげに笑った「えい」が暁を見つめている。
次に飛んできたのは不思議な言葉。
「おまえ、野球やれよ!」
「えっ?」
「野球ずきにわるいやつはいないんだっ!だからおまえもいいやつになれる!」
そしたら。そうくすぐったそうに笑って、「えい」は言葉を続けた。
「おれが、おまえのともだちだ!」
「それが…」
「うん。それが僕の、初恋」
話を聞き終わって春市はようやく息をついた。無論ずっと息を詰めて聞いていた訳でもないのだが、どっと疲れが溢れて来た。絵に描いたような初恋話とその相手に何ともコメントのしようがない。
そう、その「えい」とやらが問題だ。
ええと、と前置きをしてから語り終えて満足そうな降谷に小声で尋ねてみる。
「それ…もし栄純くんじゃなかったら殴っていい?」
「え。」
目をまるくした降谷に、そりゃあわかると春市は溜息をついた。これで別人だったら本当に殴っていただろうと思う。
そもそも降谷が栄純のことを好きなのは周知の事実であるからして、初めからそう終着させるつもりなんだろうなあと思っていたくらいだ。
じゃあ本当は栄純を追いかけて東京まで来たのかと問うと、降谷はうーんと唸った。
そういうこととはまた違うのだ。確かに栄純の――「えい」のことはあの日から忘れたことなどない。
でも、だからと言って青道に来たのは野球をするためだった。北海道で野球をやっても彼以上の存在は現れず、逆に伸びてきた降谷の才能に人は遠のいた。
ただ純粋にちゃんと野球がしたくて、降谷はここにいる。降谷の中で「えい」は大切な大切な初恋の思い出だったのだ。
だからね、と降谷は中空を見つめた。
「僕が沢村のことを好きになったのは、あいつが『えい』だったから、じゃないんだよ」
それは思い出の中に恋し続けて、夢を見てしまったのではなく。
ひとりの、沢村栄純という彼を好きになっただけだったのだ。
春市は不思議そうに降谷の横顔を眺めていたが、彼が無表情の中にとても満ち足りた心の片鱗を見せたので微笑んで、良かったね、と言った。
降谷はわかってくれる友人にありがと、と小さく呟いて、食事の続きに取り掛かった。食事はすっかり冷めてしまっていて、食堂の人口もまばらになっている。
それでも自分のペースを崩さぬのんびり食べる降谷に苦笑しつつ、春市はそういえば…と疑問を思い出した。
「栄純くんは、知ってるの?」
「さあ…聞いたことないし、どうでもいいから」
すんなり返ってきた声に混じった少しの痛みからは、やっぱりちょっとは気付いてほしかったのだと感じ取ることができた。
春市はそれ以上は何も言わず、お茶に手を伸ばし――食堂のドアに見知った人影を見つけた。
「あ、栄純くん」
「ん」
わかりやすく反応した降谷が箸をくわえたまま振り向くと、笑顔の栄純がこちらに向かって駆けてきた。日差しが降り注いだような温かさを感じたが、栄純は春市しか見ていないのに気付いて降谷はすぐさま眉を顰めた。
しかし出遅れたくもなかったので珍しく、どこ行ってたの、と、横から口を挟んでみる。栄純はクリス先輩に呼ばれていたと降谷をほんの一瞥して言って、また春市に向き直った。そんなあからさまな態度に春市は苦笑せざるを得ない。
「栄純くん今から食べるの?」
「ううん、さっき早めに食べて、それから行ったからへーき!ありがとな、春っち!」
こんなに堂々と他の人の名前は呼ぶ癖に、あの時はしっかり呼んだとくせに、と降谷は本気で思ってしまって、そんな自分にちょっとばかり自己嫌悪を感じた。どうしたって思い出の力は強いのだと思い知らされる。
せめてもの抵抗とばかりにぶんぶん首を振ったので、栄純はん?と降谷に目を向けた。
恨みがましいような途方に暮れたような顔の降谷と目が合って、そのまま少し、時間が過ぎる。
春市が心配そうに二人を見比べていると、栄純がぷっと吹き出した。
「どうかしたのか?」
「…え、」
「ひまなら、野球やろうぜー。さとる」
悪戯っぽい笑みと共に栄純が踵を返した。
それがゆっくり、
とてもゆっくりスローモーションで暁の瞳に映って、
伸ばした手は彼が駆けていった空間をただ薙いだ。
呆然とした降谷が春市を見ると、笑顔で出口を指差された。
「早く」
「う、ん、」
暁は立ち上がって力の入らない身体でふらふら、けれどすぐにスピードを増して走り出した。
二度目の初恋を捕まえに
二度目の初恋を捕まえに
終
野球やってるやつに悪いやつはいないから〜ってのを栄純に言わせたかっただけなのに長くなってしまった。
幼少降沢はたまに見ますが、こんなのもありじゃないかなーと思います。
08/11/22