降谷と栄純のアパートから大学までは徒歩で五分足らずだが、大学所有の硬式野球部グラウンドまでは自転車で二十分弱程度かかる。
それに二人が気付いたのは既にアパートを選んだ後で、完全に後の祭だった。大学側は入学前に生徒にこんなことも教えないで何やってるんだと栄純は怒ったが、このアパートは立地条件の割に格安だったので仕方ない。
 降谷はアパートに併設されている自転車置き場から自分の自転車を出し、勢いをつけて飛び乗った。
 もちろん降谷とて朝早く起きなければならないのはつらいし時間がかかるのも嫌だったが、これはこれで気分転換になると最近気付いた。風に乗っていると嫌なことや今日の授業のことなどを(当然のようにサボる予定なのだが)、少しの間忘れていられる。これ自体運動にもなるし、と案外気楽に考えている節はあった。
 商店街を抜けて住宅地を抜けて工業団地の脇を通り抜けると十川(とがわ)球場にたどり着く。大学からかなり離れているのは、この大学郊外化の波の中にあって彼らの大学が未だ街中にキャンパスを構え、グラウンドを置く場所などないからであった。マンモス校なため町内に二つキャンパスを構え更に別の地域に三つのキャンパスを所有している。比較的郊外にある三つのキャンパスの一つ、東稲荷(ひがしいなり)のそばに硬式野球部は本拠地を置いている。ここの野球部は伝統があるために例外的にグラウンドを専有でき、いくつかある球場の内の一つ、十川球場が一応ホームということになっている。
 降谷は十川に到着すると、少し汗ばんだTシャツの襟元に空気を送り込んだ。もうすぐ夏も終わりだというのに蒸し暑さは朝から健在だった。東京の夏は暑い。なんというか、突き刺さってくるような暑さだ。自然が巻き起こすのでない熱が辺りに浮遊しているようであまり好きではないと思う。
 球場の自転車置き場に自転車を置き、ベンチ裏のロッカールームに向かう。別段早い時間というわけでもなかったが、まだ自主練を始めている学生はいないようだった。声もボールの音も聞こえず、辺りは閑散とすらしている。
 それは景色のせいもあった。東京にしては幾分広々としているものの、球場入口から向って右手が煙吹く工業団地、左手のちょっと行ったところから住宅地が地平の先まで広がっている。十川キャンパスは駅から近く、球場入口からだとちょうど真後ろに隣接していた。確かにここならいくら騒いでも平気だろう。降谷からすれば春・秋の定期戦もなぜここでやらないのか不思議なくらいだった。十川は大学所有グラウンドの中でも一、二を争う古いものだそうだから、理由も知れていたが、それにしても。
 目的の扉まであと十数メートルという位置で関係者以外立ち入り禁止になっているその扉の前に見知った色の髪が見え、降谷は、あ、と小さく声を上げた。
 独特の髪色の持ち主は聞こえたはずもないその声に反応したかのようにくるりと振り向くと、獲物発見、とでも言わんばかりに目を輝かせて駆け寄ってくる。降谷は思わず眉間に皺を寄せた。とりあえず、朝一に会うにはちょっと大変な相手だからだ。
「おー降谷じゃん!めっずらし、早いな〜!」
「…成宮先輩、おはようございます」
 礼儀だけは叩きこまれているので一応頭を下げるが、傍目から見ると二人の立場は逆に見えた。彼の――成宮鳴の方が頭一つ背が低い。
 鳴は露骨に辺りをきょろきょろ見渡す。んー、と水平にした手を額に当てる仕草までしてくる鳴に、降谷はため息をつきそうになった。
「沢村ならまだ来ませんけど」
「えっ、なんでっ?」
「いや…汚れが落ちなくて」
 主語のない会話は非常に降谷らしいものであったが、鳴は怪訝そうな顔をするとはっとしたように一歩後退りした。信じられない!と顔に書いてある。
「え…何、朝からやらしいことでもしたわけ!?ずっるーい!オイラもえーじゅんと、」
「フライパンの汚れです」
「あれ、そうなの?」
 力強い声で否定すると、恨めしそうな顔からぱっと目がまるくなる。
 ころころと表情を変えるところは栄純にそっくりだと降谷は思って今度こそ嘆息してしまった。きょと、と首を傾げる仕草も似ているかもしれない。ただ、そこに悪意があるか否かの違いでここまで変わるのだから人って恐ろしいと思う。
 降谷の嘆息を目ざとく見つけた鳴は、途端に半眼になってふん、と鼻を鳴らした。
「別にいいけどねー。あー早く来ないかなえーじゅん」
「それ、止めてほしいって言ってませんでしたっけ?」
「え?彼氏だからってそゆこと言う?」
「…。沢村が、嫌がってたって言ってるんです」
 降谷も良く他人にそのいまいち勘違いを誘う話し方を止めろと注意されるが、この人のコレも相当ひどいんじゃないだろうか。ただ、鳴の場合それが許されてしまうのだからエースとは恐ろしい。(そういう思考過程はどこか間違っていたが、降谷は半ば本気でそう思っていた)
 鳴は苛立ち始めた降谷に楽しさを隠しきれないとでも言わんばかりの満面の笑顔を向けると、あんまり調子に乗ってんなよ、と星が飛びそうな調子でのたまわった。
 降谷は降谷で先輩もほどほどにしないと刺されますよ、と冗談なのか願望なのかよくわからないことを口走り、それに対して鳴は大笑いした。笑い過ぎて涙が出てきたらしく、指の腹で擦り取る。
「あーあ、おっかしい…。で、何で今日早いの?今日は開くの普段より三十分遅いって、昨日言ってたのに」
「あ。」
 鳴は想像通りの反応に吹き出した。まったくどこまでもからかい甲斐に満ちてるよね、とは褒め言葉ではないんだろうと降谷は思い、手持無沙汰に辺りを見回す。当然二人の他には誰も来ていないし、彼らの待ち人もまだ家事が一段落ついていないのかやってくる気配はない。
 未練がましく扉の錠を眺めてみても何かが変わるわけではないので、世間一般の大学生宜しく降谷はカバンの側面のポケットから携帯を取り出した。そういえば電源を入れていなかったので、画面は真っ黒である。何かあるときに連絡がつかないでは意味がないだろうと言われるが、一旦付けると消さず、一旦消すと付けないのが降谷だった。そのせいで気付けば消えていたりする。電池切れで。
 電源を入れてみると、横から鳴が覗き込んできた。本当にもう、プライバシーもへったくれもあったものではない。しかし注意したところで効果など目に見えている。
 画面が表示されるまで少しかかるので、降谷は気になったことを聞いてみた。
「そう言えば、先輩はどうして早く来たんですか」
「それもっと早く聞けっての〜。えっとね、えーじゅんが先に来たら連れ込もうとしてた」
「…どこに……」
「じょーだんじょーだん!…お、何か着てる」
 この大学に入ったのを時々後悔するのに一役も二役も買っている彼がもしエースでなかったら本気でしばき倒していただろうな、と降谷はぼんやり思いながら携帯の着信を見つめる。
 画面上で光る、『沢村栄純』の文字。
「あ」
「あれー」
 二人が携帯を覗き込んでいると、ジャジャジャジャジャ、という金属同士が擦れるような音が聞こえ、正面からやってきた自転車が二人の直前でハンドルを切りキイッ!とブレーキをかけて止まった。
 乗っていたのは話題の人物。二人はそれと見とめてぱあっと顔を輝かせた。先程まで醜い言い争いをしていたとは思えない変わりようである。
「あ、えーじゅ」
「さわむ」
「て・め・え・らーっ!」
 栄純は凄い剣幕で二人の襟首を掴み上げると、一喝した。
「集合時間くらい把握しとけーっ!」
 栄純の怒鳴り声に静かな球場の周りが一瞬震撼し、二人のピッチャーは必死に耳を抑え、遠くからそれをみていた雅はまたか…とため息を吐いた。







08/10/14