ぴぴぴぴぴ
 小気味良い電子音が響く。
 ぱし。
 すぐにそれを止める手の音。
 降谷が目を上げると、見ないでもうまく目覚まし時計に手がヒットしていた。ちょっとだけ嬉しくなりながら身体を起こし、伸びをする。昨日も遅かったからかなんとなく全身がだるい。
 ベッド横の窓にかかった薄手のカーテンを開けると、空はきれいに晴れ渡っている。夏も近いせいか日が昇るのが早い。練習日和だな、とぼんやり思ってベッドの周りを見渡し、適当に今日の服を見つくろう。どうせ朝練ですぐにユニフォームに着替えてしまうし、そうでなくても降谷は着るものに頓着しないのでどれでも良かった。
 ジーンズとシャツをもそもそ着ていると、玄関前の小さな台所スペースから、くくっと笑い声が上がった。
「おまえ、それいつまでやるんだよ?」
「…それ?」
 声の主は、だからさ、と面白そうに言い、焼いていたホットケーキを上手い具合にひっくり返した。
 おー、と降谷が歓声を上げるとにっと笑う。それから思い出したような表情になって、隣のコンロにやかんを置いた。
「だって、目覚ましかけなくても起きてるんだろ?俺が先に起きてるんだし」
「そりゃあそうなんだけど。いいにおいもしてるしね」
 朝ご飯と昼食用の弁当を作っているのだから、降谷よりも早く起きなければならないのは自明の理であり、調理の音で目が覚めるのはむしろ日課になっている。
 ただ、なんとなく、これが鳴れば朝なのだ、と思い知らせてくれる何かが欲しいのだ。
 降谷がそれを言うと声の主はホットケーキの焼け具合を菜箸で見つつ、ふーんと気があるのかないのか判然としない声で返事をした。
「君が嫌なら、やめるよ?」
「そんなんじゃないってば」
 今度はくすっと笑った栄純は、ほら早く着替えろよと言って台ふきんを持ってきた。
 ティッシュペーパーの箱やらやりかけの宿題やらをちゃぶ台から退かすとその上を丁寧に拭いて、踵を返す。
 降谷が机の前に座ると目の前においしそうなホットケーキが置かれ、そばには鶏のササミのサラダ、野菜ジュース、スープ、そしてきれいに包まれた今日の弁当が鎮座した。
 箸を持って手を合わせる。
「いただきます」
 栄純はそれを見て嬉しそうに微笑み、あ、俺も、と立ち上がって自分の分を取りに行った。
 がちゃがちゃと冷蔵庫を探る音が聞こえてくる。
「降谷、バターだけでよかった?蜂蜜も?」
「…朝から甘いのはちょっと」
「りょうかーい」
 ちょっとおどけて言う栄純は自分の野菜ジュースを注ぎ終わると足で冷蔵庫を閉め、無茶なことにホットケーキの皿からサラダから飲み物からスープから切った果物から、一気に持ってきた。
 降谷が眉間に皺を寄せているのに気づいた栄純は、けらけら声を立てて笑う。
 いただきます、と自分も言うと、フォークをふっくらしたホットケーキに差し入れた。栄純も朝から甘ったるい蜂蜜は嫌なのか、バターだけだ。
「今日は?」
 主語も述語もない言葉に栄純は顔を上げしばし逡巡し、咀嚼していたホットケーキを飲み込む。
「授業は3・4だけ。朝練付き合ったらそのまま練習残って備品のチェックして授業出て、神宮行ってくるわ」
「ああ…定期戦の?」
「おう。ほら俺一年だから、ついてくだけなんだけど、一応な」
 言いながらくるくる箸を回すのはマナー違反もいいところだが、別に誰が咎めるわけでもない。
 降谷はスープを少し飲んで、はっと気づいたように栄純を見た。
「3・4の授業って何だっけ?」
「3はお前といっしょなんだけど…」
「だと思って」
「…。3がスポーツ栄養学基礎で、4は選択体育」
 降谷がじーっと見つめてくるので栄純はため息を吐いた。言わんとしていることがわかりきっているのがなんだか情けない。
「ノート、帰って来たら写せよ?」
 途端にほっとしたような顔になる降谷になんてゲンキンなんだと栄純は呆れたが、運動部にそこまで要求する方が難しいのかもしれなかった。
 ともすれば二人で遅刻ということもあり得るのでちらちら横目で壁掛け時計を見つつ、栄純はジュースを飲み干す。
 二人ですっかり平らげると栄純はさっさと皿を重ねて台所へ持っていき、流しに置いた。降谷から二人分のコップも受け取り、もう一度壁の時計を見る。台所からだと微妙に死角になるので、背伸びしながら。
「まだちょっと時間あるな…。降谷、お前先に行ってろ」
「え?」
「片付けしてからすぐ追いかける」
 言いつつ蛇口を捻るとぬるい水が噴出した。眉を顰めてスポンジに洗剤を染み込ませ、栄純は皿を擦る。
 降谷はその姿を十数秒見て、時計を見て、のろのろ準備を始めた。栄純が出る時間にうまく合わせられないかと思ったからだ。
 しかし降谷が最後に弁当をカバンに入れてもまだ、栄純はフライパンと格闘中だった。良く見るとフライパンには焦げがついており、それがなかなか取れないらしい。
 降谷が食べたホットケーキには何もついていなかったから、たぶん焦げた方は栄純が自分で食べたんだろう。焦げを食べるとガンになると聞いたのだが、大丈夫なんだろうか。
 微妙にズレたことを考えながら、仕方なくカバンを肩にかけ、玄関に向かう。台所(と呼べるほどのスペースがないのに栄純はよくやっていると思う)を通るので栄純を通り過ぎながら声をかけた。
「その後は?戻ってきたら練習来る?」
「あー……時間あったら、な」
 栄純はこちらを見ない。たぶん時間を置くと余計にひどいことになると思ってすぐに皿洗いを始めたんだろう。何事にもまっすぐだと「ながら」ができなくて困るらしい。
 ――でも、それは俺もか。
「沢村」
「うん?」
 頬に手を当てると驚いたような栄純の視線とぶつかった。
 そっとキスを唇に押し付けて、放す。
 がらん
 フライパンが流しに落ちて盛大な音を鳴り響かせた。
「な…」
「行ってきますのキス」
 前々からちょっとやってみたくって。
 そう言って降谷は靴を履き、ありがと、と、一体何に対して言っているのか判然としない礼を述べて、軋む扉の音と共に外に出た。
 栄純はその後ろ姿が消えてからもしばらくそのまま扉を見つめていたが、泡だらけの手で唇に触れ、ふう、と嘆息し視線を落とすとフライパンとの格闘に戻った。







08/10/05