君の中の幻想の俺は、いつ死んでくれる?
ヴェネチアの祭り
それは、なんとなく発した言葉。
「ヴェネチア?」
「ああ」
「ヴェネチア…」
山本の真正面で、綱吉は呆けたように繰り返す。視線が弧を描いて、机上のプリントに落ちた。印刷された、
こちらの事情など一切気にしない、どうでもいい紙の上。申し訳程度に、ほろほろと「ぐずる」消しゴムのか
すが見えた。
綱吉を見て、綱吉が自分を見ていないのを確認して、山本はかすかに口の端を上げる。何に対して笑ったか、
なんて、わからなかった。
綱吉の茶色の双眸が戻ってきたのを見計らい、山本は続ける。
わざと、目を合わせずに。
「ヴェネチアにはさ。祭があるんだって」
「祭」
「そ。それではみんな、仮面付けてパレードすんだってさ」
「…」
「行ってみてーなー」
くるり。山本の手の上。ペンが回る。
綱吉は少し押し黙り、プリント上の消し屑を払った。
「早く、終わらせちゃおう」
それは、なんとなく発した言葉では、なかったのに。
帰り道。
ひとりの帰り道は、つらく、さびしい。
けれど、自分はまだ選べなくて。
だからこの罰を、甘んじて受け入れよう。
しかし、つらく、さびしく、腹立たしいのは変わらなくて。
夕焼けをとっくの昔に過ぎてきた空は、もう星が瞬く頃合い。藍色の海が何処までも続く。
その下に横たわる暗い街並みの中、山本は家路を歩いていた。腹はへっているが、それほど苦ではないので、
一歩一歩ゆっくり歩く。粋な散歩のように。部活後で身体の疲れが両足、両腕、野球道具と少ない勉強道具の
入ったカバンの紐がかかる左肩に襲い掛かる。そんな疲れはいつものこと。ずっしりと、ぎりぎりと身体を軋
ませようとする痛みのようなものは、彼にとっては勲章のようなもので。
むしろ、実際にあるものより、無いものの方が彼には痛かった。
見るつもりはないのに、ちらり、と視線を右に向ける。何もないそこを見て、ああ間違った、と左を見る。そ
して、ようやく無意識の行為に気づく。無意識に、綱吉の姿を追っていたことに気づく。
野球の練習が毎日遅くまである山本は、滅多に綱吉と帰宅することはない。何か面倒事に巻き込まれた綱吉と
ばったり遭遇することはあっても、だ。困った表情で走り回る綱吉を見つけたとき、綱吉がひとりでいるにし
ろ誰か他の人間と共にいるにしろ、山本は嬉しくて、そして何より悔しかった。そんなときは決まって、彼の
心は違う人間のところにあるから。
望んでいることは至って「ふつう」で、必要最低限のように思えた。
――ツナのそばにいる。野球ができる。人並みの幸せ。
最悪、二位以下は切って捨てたってかまわない。場所も人も幸せさえも、彼に比べたら非常に微々たるものに
思えた。
そうそれを切り捨てたから、自分は非日常な戦いの中にだって笑顔で身を置ける。
「はは…」
綱吉に笑ってみせる自分の顔を思い浮かべたら、声を立てて苦笑していた。
自分の笑顔なんて、そういいものじゃない。
第一、 切り捨てられたのか、まだ完全に切り捨てていない自分にはわからなかった。自分は理想論を並べ立て
ているにすぎないと言えば、それまで。
本当に綱吉以外を排除できるなら、すでにそうしているんじゃないのか?
野球なんて。思ったとたん、自分がひどく傷ついた気分になるのは、やはり事実だ。
綱吉よりは、と思っても、今はまだ。
しかし自分は、ツナがいちばん大切だ、と綱吉に言ってのけるのだろう。それも、事実。
二面性。そんな言葉を思いついたら、可笑しかった。
――ツナは、どこまでわかってんのかな。
何度も心の中、繰り返す問いに答えなど出ない。明確に存在するそれは、山本の手の届かないところにあった。
大好きなひとの、心の中に。
単なる愛や恋の類なら、どれだけよかっただろう。けれど、現実それはそんなものじゃなかった。
綱吉の姿を思い描いて、その隣に立つ自分を思い出した。幸せそうだった。
電灯がぼんやり灯る角を曲がる。そんな心もとない光景にさえ、あの「親友」は重なって山本の心を覆う。困
ったものだ。
角を曲がりきって、先ほどの綱吉を思い返して目を伏せた。足元には薄暗い闇がわだかまるばかりで特に何も
見えない。
部活前に、一緒にプリントを片づけていたとき。綱吉は山本の言葉をどう受け取っていたのか。あの不可思議
で何の脈絡もない話題を、普段の何気ない世間話として受け取ってくれたのだろうか。
冷たい風が吹く。首筋に風を感じた途端、ぞくり、と背筋に悪寒が走って、山本は身震いした。
あの時、確かに自分のもうひとつの顔が覗いていた。
もうひとつの。ほんとうの、自分が。
――仮面。そうだ、仮面。
付け続けた仮面は、あまりにもしっくり顔に納まってしまって、もう剥がれなくなっていたのに。
もし綱吉があの時山本の目をしっかり見ていて、山本も綱吉の目をしっかり見ていたなら、もう手遅れだった
かもしれない。考えただけでも――いや。確かに山本は「それ」が綱吉に気づかれるのを恐れてはいるけれど
も、暴かれた瞬間の開放感に思いを馳せることはよくあった。
空は暗く、住宅街に沈み込み始めた。路地がだんだんと狭くなってゆく感覚にかられる。疲れてはいないとい
うのに、体が重い。
見慣れた石塀や生け垣が、真っ黒の無機物に思えてきて、なんだか悲しかった。
自分はどこまでツナに嘘をつき続けるのだろう。
だが、山本自身、それが嘘か真なのかわからなくなってきていた。
――ヒーロー、か。馬鹿げてんな、俺も。
本当は。本当なら、そうじゃないはずなのに。
自嘲気味に笑う。肩にかけたカバンをかけなおす。中に詰まった大切なものたちを捨てたら、空でも飛べる気
がした。しかしそんなことはない。自分は飛べもしないし、カバンを放り出すことさえしない。「山本武」は
そういう男なのだ。
――うん、それはおれが一番よく知ってるさ。
現状に落ち着く。綱吉の周りの他の人間が現状から逸脱したがる傾向がある以上、彼と友人関係になってから
自分の役目はそれだと信じてきた。そう言うと語弊があるかもしれない。山本は、現状に落ち着く日常的な自
分を過ごすことが、綱吉の逃げ場なのだと言い聞かせてきた。
でも。けれど。
本当の自分を知ったら、彼はどんな顔をするのだろう。
「…ねえな」
ぽつり、つぶやいた言の葉は、地上にわだかまって消えた。
嫌われたく、ねえな。
ビョオオオオ……
風が吹いて、いい音を立てている。シャツの襟がはためく。
「……」
綱吉は屋上で寝っ転がっていた。透明な陽光が降り注ぐ、微妙な季節の微妙な時間に。
理由を考えるのが昔から苦手な彼は、「今日の気分でここにいる」ということにしている。それも事実の一部
だ。
でも本当じゃない。
だだっ広い空は、大空と呼ぶにふさわしい。うっすら雲がかかっていたが、ほとんどないに等しい。少し頭
を傾けても、空以外が綱吉の視界に入ってくることはなかった。
――こういうのを、気分転換っていうのかな。
それともちょっと違う気がしたが、まあどうでもよかった。
「ツナ」
風の音以外が聞こえて、綱吉は体を起こした。振り向くと、親友の姿がある。彼は、綱吉から五メートルほ
ど離れた位置で突っ立っていた。そこから動くには、何か許可が要るみたいに。
「山本?」
「隣、いいか?」
言われている意味がわからなかった。そんな言葉を彼の口から聞く日が来るとは思ってもみなかった。そん
なことを言いながら隣に座る山本に、「座ってんじゃん」と笑うことしか、綱吉の選択肢にはないはずだ。
しかし、綱吉はこくりとうなずいた。親友の頼みを断ることもまた、彼の選択肢にはない。
「いいよ」
言われて山本はようやく動き出した。ゆっくり、ゆっくり歩いて、綱吉の隣までくると、腰を下ろす。
「サンキュ」
確かに山本が言った言葉なのに、全然そう聞こえなかった。どこかひどく冷たい。
ぶっきらぼうとかではなく、触ったらひやりとしそうな声だった。
「どうか、した?」
「いや」
軽く覗き込み、合わせようとした瞳は合わなかった。山本はまっすぐ前を見つめている。短すぎるほど短い
返事には、あまり感情がこもっていなかった。
しょうがないので、綱吉も前をまっすぐ見た。山本が何を見ているのか、想像しながら。鳥の一羽でも飛んで
いれば目の行き場もあっただろうが、ただ薄青い空が広がる視界に見るべくものなどない。その下にのさばる
住宅地など言うまでもない。目的のない気分転換に、見るものなど求めてはいけないのかもしれないけれど。
二人で両足を投げ出して、空を見続ける時間は愛しい。しかし、隣に座る親友との間に微妙な「ずれ」が――
空間に、彼と自分を隔てる線がそれはもうはっきり――見えて、綱吉は眉間にしわを寄せた。
「どうかした?ツナ」
いつの間にか山本に顔を覗き込まれていて、綱吉は丸い瞳をぱちくり、と瞬かせる。ふにゃり、と笑った。
「山本こそ。どうしたの?」
彼はその問いを待っていたのだろう。少し悲しげに笑って、首を振った。
「なにも」
「うそだ」
淡々と出された綱吉の言葉に、山本は眉をぴくりと上げた。綱吉の口から聞く「うそだ」は、思っていたより
ずっと痛い。
――わかってた。わかってる。
この子が時として、かなり残酷だということを。無意識なだけに、タチが悪い。
意を決さねばならない。ふ、と息を吐いて、同じように淡々と言う。
「ツナは、俺のこと、どんなヤツだと思ってる?」
「山本のこと?」
「そう、俺のこと」
「俺」に、強く力をかけて山本は言った。他の誰でもなく、山本武なのだと。
綱吉は山本の顔をじっと見つめた。綱吉の瞳は強い。それを知ったのはいつだっただろう?ただ見られている、
それだけで射すくめられた気分になって、うつむいた。
茶色の双鉾の真っ直ぐな眼差しが細まる。笑みの形だ。
綱吉が応えを紡ごうと口を開く。
しかし、
「ツナ…ツナ…」
「うん…?」
先に、山本が言葉を発した。小さく震えるとても頼りない声、なのに綱吉はしっかり聞きとめて拾い上げる。
山本はうつむけていた顔を突然綱吉に向け、手を伸ばし、ぐい、と肩を引き寄せた。
綱吉の目に浮かぶのは、軽い驚きの色。
「山本…?」
「なあ、ツナ。俺、お前が思ってるような、ヤツじゃないんだ。知ってるよな?…知ってた、よな?」
まくしたてる。普段の自分の声色とかなり違うことには気づいていた。今更直す必要を感じなかっただけだ。
そこでようやく、綱吉の瞳にも不安そうな陰が落ちた。
――そうだ、それでいい。ツナ。
今すぐ終わらせてしまえ。そんな声を聞いた。
山本は肩を掴む手に力を込める。綱吉の細い骨格など、簡単にばらばらになってしまいそうだった。
親友の尋常でない様子に、綱吉はびくり、と震えた。
「やまも――」
「ヒーローとかさ。正直ちょっと無理。俺には、無理」
綱吉が目を大きく見開く。
傷付いた。
瞬間、やった、とも、やってしまった、とも思った。
「だってさ、俺、ホント、お前が思ってるようなヤツじゃない。お前のほしい、山本武じゃないんだ」
「なに言ってんの、山本…?」
綱吉はとても不安そうに見える。
それが嬉しいのはサディズムというやつのせいなのか。
それが悲しいのは偽善というやつなのか。
わからない。わからないがしかし、上げた幕は下ろせない。
自然と口が笑みを形どるのがわかった。そんな自分にすら、ぞっとする。けれどそれが本当の自分なのか仮面
なのか、彼自身わかっていない。
「野球ができて、友達が沢山いて、やれば勉強もそこそこ。クラスのムードメーカーで、女子にモテて。なん
かさ…俺じゃないんだよ、そいつ」
冷静な自己分析を、どこか楽しそうに。自分らしくない。じゃあらしさって何なんだ――?そう思ったが、綱
吉のまあるい大きな瞳から目が離せなかった。驚いて、困惑して、悲しんで…これから絶望に突き落されるで
あろう、その瞳から。
山本は右手を肩から離して、自身の頬に当てた。綱吉に見せつけるように。暖かな人肌でしかないはずなのに、
確かに仮面の感触を覚えた。
「全部、全部、仮面なんだ。俺が生きてきた十四年間が無駄に作り上げた、仮面なんだ」
「仮面…」
ぽつり、おうむがえしに呟いた綱吉の言葉は、山本の横を風に乗って吹き抜ける。
逃がさないよう、左手に力を込める。どんな事態が起きても構わなかったが、最後まで綱吉に聞いてもらえな
いことが、山本の危惧だった。
「ほんとはおれ、相当かっこわりぃ。お前がおれのことどう思ってるかで毎日死にそうになれるし、お前のこ
とめちゃくちゃにしてやりてえ、っていつも思ってる」
彼の言っていることは至って気弱で、口調だけは固く強く怖かった。
しかし、山本は目を伏せる。
「や、違う…おれ、お前のこと好きなんだ。でも、お前の知ってる――お前の見てる山本武は、見て見ぬフリが
得意なあいつは、お前を尊重すんだろうな。でも」
右手がいつの間にか頬から離れ、綱吉の肩を掴んだ。引き千切りそうになる。また、綱吉がびくりと震える。い
ちいち過敏に反応する彼が愛しくて、可笑しくて、山本は今度は声を立てて笑った。
そうだ、これは仮面に違いない。くるくる変わる仮面なのだ。
言っていることもやっていることも、かなり支離滅裂で、けれどそれをどこかで自分は計算してやっている気が
する。
もう一度綱吉と目を合わせる。ずっと目を逸らさない彼が、むしろ可哀想だった。それを自分が言ってはならな
い、けど。
「俺なら…仮面のない俺なら、たぶん、お前のこと好きなほかのやつら、全員消してでも手に入れたいって思っ
てる。ツナ、お前を」
そんな言葉で綱吉が喜んでくれるなんて思っちゃいない。彼が欲しているのはあくまで、仮面の外側の自分。
「触れて、抱きしめて、キスして、犯して、お前を俺だけにしたいって」
低く囁く。心の中でずっと渦巻いていたセリフは、思いの外開放的に放たれた。言った後ひどく後悔すると思っ
ていたが、痛みを伴う快感のようなものだ、と割り切れた。
肩から手を離し、綱吉の頬に触れる。暖かかった。またしてもご丁寧に、びくり、と震えられてしまう。
「なあ…おかしいだろ?」
山本は泣き笑いのような表情を浮かべる。すべて吐き出したらとても解放されると思っていたのに、なんだか疲
れてきていた。自分じゃない自分が話し続けているようで、それから綱吉がただじっと自分を待っているのがな
んとも歯がゆくて。
「でも最近、なんだろうな、仮面が言うこと聞いてくんねーんだ…?」
綱吉がぼやけた。突然霞む綱吉の姿に、山本はおかしいなと感じながら、そんな疑問は放っておいた。
彼は、目に涙を溜めているのに、気付いていない。
「なあ、ツナ。お前の中の幻想の俺は、いつ死んでくれるんだ?」
顔はそれ以上近づけない。(むしろ自分が耐えられなくなるのを知っているから)
「それとも、俺が殺してやればいいのか…?」
綱吉が瞳を大きくして小さな口を開いた姿に、今すぐ押し倒してやりたい気持ちに駆られる。(けれどしない。で
きない)
「なあ、ツナ。なあ」
肩を強く握る。本当にもう、ほら、すぐにでもこわれそう。(こわれないさ、だってツナなんだから)
「答えはお前が持ってるんだ。お前だけが、持ってるんだ。俺じゃ、ないんだ」
すぐほしかった。なんでもいい、なんでもいいから、綱吉の言葉がほしかった。
自分にだけ向けられるなら、愛だろうが軽蔑だろうが恐怖だろうが、なんだって。
けれど、
――いちばんほしい言葉は――
もう、あと一言でおわり。
彼との今までの関係も、自分のいちばん大切なものも。
さあ、幕引きだ。
「お前は、ほんとうのおれを、知ってんの……?」
山本は、手の力をゆるめた。力の抜けきった彼の両手は、綱吉の頬から肩を伝って、ぽとりと地面に落ちた。
「ううん、たぶん…」
綱吉の声。言葉。聞きたくて聞きたくなくて、しかし聞かないと潰されそうで、聞いたら確実に潰れてしまう。
それはかつて、ここから飛び降りる前に感じた気分と同じ。
綱吉はいったん言葉を切って、指先で山本の頬に触れた。大切なものに触れるみたいに、そっと。山本はびくり
と震えた。身体は固いのに、中を流れる血液が大きく波打つ。
綱吉の目は山本だけを見つめる、一途な目だった。軽蔑も恐怖も読み取れない。
「おれは、山本のこと、たぶん全然、わかってないよ」
とす、と胸に刃物が刺さったような感覚に陥った。
ショックなのではない。当たり前に予測していたことだし、それを望んでもいた。なにも知らない大切な親友…。
そこに綱吉が溜まってくれるなら、それ以上幸せなことはないはずで。しかし、
――いっ、た…!
山本は胸元をぎゅっと掴んだ。先ほど吐き出した言葉のせいか、どことなく楽になっていた胸の辺りが、どしり
と落ち込んで軋んだ。痛い、とは明確に違ったが、それしかその感覚を呼ぶ名を知らない山本は、心の中で顔を
歪める。
実際、目を切なく細めたのを、彼自身知らない。
綱吉はそれを見て、同じように目を細め。
「でも、山本だって、知らないでしょ?」
山本は目を見開いた。綱吉の琥珀色の瞳に、心臓を貫かれそうになる。山本の小さく開いた口に空気が、ひゅっと
入って無音で出ていく。冷や汗が首筋を伝った。
綱吉はふわり、と笑む。周りの空気の色が変わる。
山本の頬を両手で包み込んで、もっと目を近付ける。今度は震えなかった。ただ、とくんと心臓の音が聞こえた。
「おれのこと、ぜんぜん」
絶対的な否定が綱吉の口から放られる。
山本は開いたままの口をもう少しだけ開き、閉じて、息を吸って、
「そんな、ねえよ」
言葉足らずだが、かすれていたが、想いは音になった。
綱吉は汗ばみはじめた指と手を、しっかり彼の頬に密着させる。
「知らないよ」
「知ってる」
「知らない」
「何度も言わせるなよ。ツナのことは、ツナ以上に知ってる」
強く吐き出された言葉に、綱吉は嬉しそうに頷いた。
「うん、たぶん」
「ぜったい、だって」
真剣な瞳で子供のようにむきになって言う山本が、なんだか愛しかった。嬉しかった。心がとくとくとくとく鳴っ
た。
逆に山本は悲しくなった。
「ツナはきれいだ…でも俺はお前みたいに、きれいじゃない」
「だから、そんなこと…」
「はっきり言えよ、ツナ!」
間近で聞く大声に、綱吉は驚いて一瞬目を見開いたが、すぐにまた微笑んだ。
「ごめんね山本。俺に、君の仮面は見えないんだ」
山本が大きく目を見開いた。おそろしく傷ついたような気分になった。
綱吉はそれをわかっていたけれど、はっきり言い切った。
「だって山本は、山本」
綱吉は山本の額に、自分の額をくっつけた。互いの汗ばんだ熱が伝わる。
山本をとてもとても近くに感じながら、唇が触れあいそうな位置で綱吉は言葉を紡ぐ。吐息が唇にかかって、山本
は心臓を掴まれたような感覚に苛まれた。
「じゃあ山本に、俺の仮面は見えてる?」
「ツナにはそんなもんあるわけないだろ!?」
「ある。いっぱいある」
「うそだ…なあ、気ぃ遣わなくていいから!」
拒むように、助けを求めるように、山本は自分の顔を包む綱吉の両手を上から握った。その頼りなさに、綱吉は心
をぎゅっと握り締められたように感じた。
息を整えるように山本は息を吐く。鼻先から口元に生暖かい息がかかって、綱吉の心拍が速くなる。
「山本」
綱吉は笑った。ときどき見せる、切ない笑顔だった。
山本は、誰かのためにそんな顔をする綱吉が好きで…同時に、許せなかった。なのに、今彼にこの顔をさせている
のは自分。やりきれない。
「ツナ…」
「みんな、仮面着けてるんだ。でも、気づいてるのは自分だけ…みんな着けてるから当たり前で見えなくなってて、
自分のにしか気付けないんだ」
「そんな」
「おれ、ダメツナだよ。それ以上でもそれ以下でもないんだよ?気づいて」
「違う。ツナは、ホントにすごいやつだ。俺を助けてくれた」
熱に浮かされたようなふわふわした言葉が舞う。
否定してほしかった。自分の中の尊いお前の存在を、お前自身に決め付けてほしくなかった。
「ツナは知らなすぎる…お前のこと」
「うん、たぶん」
綱吉は素直に頷いた。確かにおれは鈍感らしいから。否定のしどころがない。しかし、譲れないものは譲れない。
「なら、山本だって同じだよ。ぜんぜん、わかってないよ」
山本の頬から手を離した。覆っていた山本の両手は、いとも簡単に外れる。少しくらい抵抗すればいいのに、と綱吉
は思った。
からだごと横を向く。反動をつけ、ひょい、と立ち上がる。綱吉の軽いからだが宙をとらえ、その場に止まった。そ
んな一挙一動に、ビクビクする。いや、どきどきする――?
綱吉は小走りにフェンスに近づいた。フェンスの網目に景色が分断される。
フェンスの網目をぎゅっと握り、体重を預けて空を見上げた。後ろに山本の確かな気配を感じる。それだけで、綱吉
は幸せだった。
「ね、山本」
「…なんだ?」
少し間を置いて帰ってきた言葉は、躊躇いを含んでいた。
それには特に言及せず、綱吉は遠くを見やる。青い空と、町並みと、遠い緑の丘が見える。いや、山かもしれない。
「君は、山本武なんだ。仮面なんてどうでもいいくらいに、山本なんだよ」
くるりと、振り返る。山本はいつの間にか立ち上がって、切ない顔でこちらを見ていた。綱吉の手は網目に置かれた
ままだ。屋上ダイブ以来、フェンスは飛び降り防止にと、高くなっていた。
二人の間には少しばかりの長い距離があって――二人とも、それを縮めようとはしない。
綱吉はにっこり笑った。大空のごとく包み込まれるその笑顔。
「俺の知らないところをたくさん持ってる、ぜんぶひっくるめて、俺の大好きなひと、なんだよ」
そう。彼は綱吉にとってヒーローで、親友で、憧れで。綱吉はその思いに、疑いを持ったことなどない。山本が同じ
であるように。
だから、仮面だなんて言ってほしくなかった。知らない醜い部分があるなら、それはこれから大好きになる一面なの
だから。もし山本がそれを捨てたいと願うなら、それを助けてあげたい。それすら愛してほしいと望むなら、いくら
でも。
今の自分にそれができることが、綱吉はとても嬉しかった。
――だいじょうぶ、だいじょうぶだから、ね。
心の中で、自分と彼に言い聞かせて。
なのに、何故だか。
綱吉の頬を、雨も降っていないのに透明な雫が伝う。彼自身、それには気づいていなかったけれど。
山本は今までで一番傷ついた、脅えた顔をした。目を見開いて、口を開いた。
なんでそんな顔をするのかわからず。綱吉はおかしそうにへにゃりと笑った。
「あ、でもさ――」
「山本のまぼろしの中の俺、そんなにきれいだったんだね…!」
数メートルの距離が一気に縮まって、山本の腕が綱吉を包み込んだ。
綱吉は優しく、確かに山本の背中に手を回して、受け止めた。
「ツナ、ごめん」
「あはは、なんで山本が泣くの?」
「お前が…泣いてるから、だよっ…!」
一筋の涙は綱吉の頬を流れて、屋上のコンクリートにぴちゃりと落ちた。
深い、深い「もや」。目が覚めた時には、その記憶しかなかった。
「ん…」
綱吉は軽くうめいて重い身体を起こした。どうやら椅子で居眠りしてしまったらしい。薄暗い執務室の中を見渡し、
息を吐く。机上の時計は午後五時を指していた。ぶる、と身震いをする。さすがのイタリアも、二月ではそれなりに
寒い。こちらの気候に慣れたのなら、なおさらのこと。
ぼんやりする。なにか夢を見ていたような気もする。なんだろうか。
コンコン、
静かな部屋の中にノック音が響いた。綱吉は伸びをして、立ち上がる。
「どうぞ」
「よ、ツナ」
重々しい扉を開けて入ってきたのは雨の守護者だった。相変わらずの笑顔を浮かべる彼を見、綱吉は目を丸くする。
「あれぇ…山本」
今日彼は遠出をしていたはずだが。少なくとも帰りは明日の予定だ。
「予兆は、あっただろ?」
山本は頭をかきつつ、執務室の窓から外を見た。雨。
綱吉は気まずそうに目を逸らす。
「ごめ…俺、寝てた」
「うわーツナひっでー」
「だっ、だって!」
おどける山本に慌てて抗議する。実はおどける必要なんてないのだけれど。綱吉にかまってもらえるのが昔と変わら
ず好きだから、まあいいとする。
「それで、仕事終わったの?」
「ああ」
「おつかれさま」
デスクを離れ、山本の元へ。山本は慣れた様子でひざまずくと、綱吉の手を取ってくちづけをした。綱吉の手を取っ
たまま、立ち上がる。
二人は窓の外をぼんやり見つめた。
静かに振り続ける雨と明かりのないモノクロの光景は、世界を二人だけにしてくれた。
「雨だねー」
「雨だなー」
「…ね、山本」
「ん?」
横を見下ろすと、綱吉が微笑んでこちらを見上げている。
十年間でまったく縮まらなかった距離。確認する度、幸せな気持ちになる距離。
「いい、季節になったね」
綱吉は、山本に体を預けた。肩の辺りに感じる心地よい重みに、山本は目を細める。
つないだ手は、もっと強く結ばれた。
「だから早く帰ってきたのかと思った」
「……どこかでは、」
「気付いてた?」
「ああ、たぶんな」
ふふ、と綱吉が声を立てて笑う。
「もう間に合わないかもね?」
「あれに?」
「うん…て山本、俺ら主語抜かしてしゃべりすぎ。わけわかんない」
「あー、確かになあ」
「もしかしたら間違ってるかも。俺ら、全然違うこと、考えてるのかも」
「かもなあ…よし、同時に言ってみっか」
「違ったらどうすんのー」
「ツナの言うことに従うぜ?」
「ボスだから?」
「最愛のひと、だから」
額に、瞼に、頬に、首筋に、雨のように降るくちづけ。
世界は、無音。
最後に唇に降りてこようとした山本の唇が、弧を描く。綱吉は瞬きをした。
「あれ…誤魔化しは終わり?」
「ツナ、ひでえなあ。そんなんじゃねえって」
綱吉は挑戦的な笑みを形どる。
「じゃあ、やってみよーか」
山本は手を離して、綱吉の腰に回した。綱吉は少し背伸びをして、山本の首の後ろで手を組む。
「山本、確認」
「ん?」
「今は、二月だよ?」
「ん」
「ここはイタリアで」
「ああ」
「合言葉は、仮面だ」
「ツナー、心配しすぎだって」
「違ったらやだもん……かけ声は?」
「せーの、だろ?」
「じゃあ…せーの、」
「「ヴェネチアの祭りに、行こう」」
色とりどりのきらびやかな仮面の中で、
君と生きる今この瞬間を祝おう。
――ツナ、どんな仮面にする?早くしろなー。
――えーっとえーっと…あんまり派手じゃないやつ…。これにしようかなあ。山本は?
――じゃ、おんなじやつ!
――ええっ!?ずるいー!
仮面など、一年に一度思い出せば、十分なのだ。
ヴェネチアの祭り
終わり
読んで頂きありがとうございました!
…はい、ということで言い訳です(笑)
この話のネタは、おそらく私自信が少し肉体的にも精神的にも疲れていたために生まれたんだと思っています。
だから全体的に山本が病んでいますよね。
一番初めに思いついたのが、はじめのこのセリフでした。
「君の中の幻想の俺は、いつ死んでくれる?」
相手が自分の本当の姿を見てくれていないことに対する葛藤…というのは、先日見た悲しいお芝居の影響もあっ
たと思いますが、私はハッピーエンド至上主義の人間なので、その葛藤にちゃんと決着をつけたくていろいろ悩
みました。
今回の話は空月の中では比較的珍しい、「山本がツナに救われる」というお話です。
私普段はやたら「ツナが山本に救われる」話ばっかり書いていました。泣いてるツナを優しく抱きしめてくれる、
みたいな話が多かった。
実は途中で、「まったく同じ内容で山ツナの立場が逆転した話」も書こうかなと思ったのですが、同じ内容じゃ
読んでる方も書いてる方もつまらないということで却下となりました(笑)他にもさっきケータイを見たら「ラ
ストはイタリア語でしめる!」とか書いてあって驚きました。そういえばそんな予定もあった…。
立場逆転話を書かなかった代わりと言ってはなんですが、目標を立てました。「山本の良さ、ツナの良さ、山本
から見たツナ、ツナから見た山本をきちんと入れる」でした。成功した、とは思っていませんが、それなりに沿
えたのではと考えています。どうでしょうか?(聞かれても)
山本の方が葛藤しているように見えて、実はツナもいろいろ思うところがあって、という感じは出せたのでは。
どうなのかな…。
無駄に長い話で申し訳ありませんでした。大変でしたが、書いててとても楽しかったです。
それでは、ここまで読んで下さりありがとうございました。愛してます…!
6月15日 雨の合間に